とくがわ‐つなよし〔トクがは‐〕【徳川綱吉】
とくがわつなよし 【徳川綱吉】
徳川綱吉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/12 08:23 UTC 版)
徳川 綱吉(とくがわ つなよし)は、上野・館林藩初代藩主、江戸幕府の第5代将軍(在職:1680年 - 1709年)。第3代将軍・徳川家光の四男。館林徳川家初代。
注釈
- ^ この年の4月12日に鶴姫が死去して綱教との間に子供は無く、そのため綱吉に血統が近い綱豊(家宣)が選ばれたという背景がある。
- ^ 「徳川実紀」「折たく柴の記」によれば、家宣が廃止すると宣言し、吉保も廃止に賛同したとある。が、『楽只堂年録』によれば、家宣は「いずれもあひ守り、断絶なきやうにすべし」としながらも、罰則を無くして罪人が出たり経済的負担が増えたりしないようにした、とある。どちらも事実上は廃止であるが、前者と後者では家宣および幕府のとった行動の意味がかなり異なってくる。『黄門さまと犬公方』山室恭子
- ^ 数寄屋橋門外より出火し上野を経て千住まで300町余を焼失、死者3,000人以上。
- ^ 例えば元禄4年3月22日(1691年)に初めて神田橋門の柳沢吉保邸に行った際自ら五番舞った。以降、宝永5年10月5日(1708年)まで(計58回)柳沢邸で能曲を楽しんだ。
- ^ 具足の胴の高さが6代将軍家宣の少年期のものと同じである。
出典
- ^ a b c 深井雅海『綱吉と吉宗』2012年、吉川弘文館
- ^ a b 館林市編さん委員会 2016, p. 28.
- ^ 館林市史編さん委員会 2016, pp. 29–30.
- ^ 三上隆三『江戸の貨幣物語』東洋経済新報社、1996年
- ^ 第7回「麻疹(はしか)」 -天然痘と並ぶ2大感染症だった 加藤茂孝 (PDF) モダンメディア 2010年7月号(第56巻7号)
- ^ a b c d 鈴木則子、三成美保(編)「元禄期の武家男色」『同性愛をめぐる歴史と法:尊厳としてのセクシャリティ』 明石書店 2015年、ISBN 9784750342399 pp.229-230.
- ^ a b c 『図説 日本の歴史11.江戸の開幕』集英社、1975年
- ^ a b 井沢元彦『逆説の日本史14 近世爛熟編文治政治と忠臣蔵の謎』小学館、2007年
- ^ 三上参次『江戸時代史 上』講談社学術文庫、1992年
- ^ a b 『なるほど元禄忠臣蔵 完全ガイドブック』世界文化社、1998年
- ^ 桑田忠親『徳川綱吉と元禄時代』秋田書店、1975年
- ^ 『図説 日本の歴史12.変動する幕政』集英社、1975年
- ^ ヤン・シーコラ (PDF) 江戸時代の経済思想における市場原理の概念についての一考察
- ^ 鈴木一夫「水戸黄門 - 江戸のマルチ人間・徳川光圀」など。
- ^ a b c d e f g 表章、天野文雄『岩波講座 能・狂言 I 能楽の歴史』(1987年、岩波書店)
- ^ “徳川全将軍の甲冑そろい踏み…福岡市博物館で特別展”. 読売新聞. (2021年8月11日) 2023年3月20日閲覧。
- ^ 冷泉為人他「瑞穂の国・日本─四季耕作図の世界」1996年 P74~77
- ^ 篠田達明『徳川将軍家十五代のカルテ』(新潮新書、2005年5月、ISBN 978-4106101199)より。また、謎解き!江戸のススメ(BS-TBS、2015年3月2日放送)でも紹介された。
- ^ a b 堀池春峰「唐招提寺」『改訂新版世界大百科事典』平凡社、2007年。
徳川 綱吉(とくがわ つなよし)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/21 15:18 UTC 版)
「神州魑魅変」の記事における「徳川 綱吉(とくがわ つなよし)」の解説
江戸幕府5代将軍。生類憐れみの令などの悪法を制定し暴君として恐れられているが、正体は魔人に憑り着かれた老人。
※この「徳川 綱吉(とくがわ つなよし)」の解説は、「神州魑魅変」の解説の一部です。
「徳川 綱吉(とくがわ つなよし)」を含む「神州魑魅変」の記事については、「神州魑魅変」の概要を参照ください。
徳川綱吉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 08:29 UTC 版)
徳川幕府第5代将軍。狗頭龍村正を鳴神藩から奪い、妖刀を隠し持っていたかどで鳴神藩を取り潰した。
※この「徳川綱吉」の解説は、「朧村正」の解説の一部です。
「徳川綱吉」を含む「朧村正」の記事については、「朧村正」の概要を参照ください。
徳川綱吉(とくがわ つなよし)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 00:40 UTC 版)
「新・浪人若さま新見左近」の記事における「徳川綱吉(とくがわ つなよし)」の解説
前作の終盤で起きた事件で左近を仮の世継ぎとして西ノ丸へ入れた。左近を大事にする気持ちは変わらず、浜御殿から市井へ抜け出して以前のような活躍をしている事を薄々気づいており、西ノ丸から浜御殿へ下る事にも敢えて反対していない。
※この「徳川綱吉(とくがわ つなよし)」の解説は、「新・浪人若さま新見左近」の解説の一部です。
「徳川綱吉(とくがわ つなよし)」を含む「新・浪人若さま新見左近」の記事については、「新・浪人若さま新見左近」の概要を参照ください。
徳川綱吉(とくがわ つなよし)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 00:33 UTC 版)
「浪人若さま新見左近」の記事における「徳川綱吉(とくがわ つなよし)」の解説
家綱の跡を継いで5代将軍に就任する。江戸の民は自分の子供のように思っており、左近同様たとえ譜代のような高い身分のある者であろうと罪の無い者を襲うことを許さない。そのため作中では左近のことを大切に思っている。また自ら将軍就任後も左近に市中へ下ることも目をつむり逆に自分に見えない悪の成敗も託したり、領民を救うための甲府入りもあっさり許している。牧野を始め、自分と左近の仲を引き裂こうとする幕閣の不穏な動きを鋭く察知しており、側近のいうことを鵜呑みにせず自ら考えて結論を出す洞察力を持つ。また生類憐みの令も「死んでいる物を食べるのは問題ない。悪人が襲ってきたのを成敗するのは問題ない」としており非常に聡明で柔軟性に富んだ人物として描かれている。
※この「徳川綱吉(とくがわ つなよし)」の解説は、「浪人若さま新見左近」の解説の一部です。
「徳川綱吉(とくがわ つなよし)」を含む「浪人若さま新見左近」の記事については、「浪人若さま新見左近」の概要を参照ください。
徳川綱吉(とくがわ つなよし)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/03 07:34 UTC 版)
「おしとね天繕」の記事における「徳川綱吉(とくがわ つなよし)」の解説
※この「徳川綱吉(とくがわ つなよし)」の解説は、「おしとね天繕」の解説の一部です。
「徳川綱吉(とくがわ つなよし)」を含む「おしとね天繕」の記事については、「おしとね天繕」の概要を参照ください。
徳川綱吉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 14:57 UTC 版)
※この「徳川綱吉」の解説は、「赤穂事件の人物一覧」の解説の一部です。
「徳川綱吉」を含む「赤穂事件の人物一覧」の記事については、「赤穂事件の人物一覧」の概要を参照ください。
「徳川 綱吉」の例文・使い方・用例・文例
- これは徳川幕府への強烈な打撃となりました。
- 『カムイの剣』は、1868年の徳川将軍時代の崩壊と、明治天皇下での日本の復興という変革期を舞台にした、一種の侍/忍者物語だ。
- 徳川家の系図を列挙しなさい。
- 徳川幕府は1868年に終わりを告げた。
- 徳川幕府.
- この珍しい風習の起源は徳川時代にさかのぼる.
- 嘘で固めた徳川幕府
- 明治政府は徳川幕府の跡に立った
- 日本は徳川の世に栄えた
- 徳川に向かって弓を引く
- 日本外史は平氏から始まって徳川時代で終る
- 徳川幕府の治世に
- 徳川栄華録
- 徳川栄華録(書名にすれば)
- 家光は徳川三代の将軍
- 徳川時代
- 時の人は皆徳川の徳を謳歌した
- 日本外史は平氏から始まって徳川氏で終わる
- 徳川の四天王
徳川 綱吉と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
- 徳川 綱吉のページへのリンク