因島村上氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 06:03 UTC 版)
「村上水軍」を参照 中世南北朝時代から室町・戦国時代にかけて、この島は因島村上氏の拠点となる。因島に定着した正確な時期は上記の伝承ではなく確実な記録上では不明で、宝徳元年(1449年)には中庄に定住していたことがわかっている。 彼らはこの南である伊予の能島・来島を拠点とした勢力とともに三島村上氏と呼ばれ、芸予諸島周辺海域の舟運を取り仕切った海賊衆である。ルイス・フロイス『日本史』にはその中の総領家である能島村上氏のことが出てくる。 副管区長コエリョ師は室を出発して旅を続け、やがて我ら一行は、ある島に到着した。その島には日本最大の海賊が住んでおり、そこに大きい城を構え、多数の部下や領地や船舶を有し、それらの船は絶えず獲物を襲っていた。この海賊は能島殿といい、強大な勢力を有していたので、他国の沿岸や海辺の人々は、彼によって破壊されることを恐れるあまり、毎年、貢物を献上していた。 — ルイス・フロイス、完訳フロイス日本史 なお水軍という言葉は当時は存在しておらず後の研究者が名付けたものであり、現在ではフロイスを参照し「海賊」呼称と併用する傾向にある。 フロイスは通行する船から闇雲に金品を強奪する海賊としているが、実態はいわゆる水先案内人であったと現在では考えられている。この周辺は南北に大小様々な島が連なり干満で潮の流れが激変し、更に伊予側の来島海峡は現在でも最大で10ノット(約18km/h)の急潮と古来からの海の難所であったため、三島村上氏が水先案内人として航行の手助けをし”警固料”と呼ぶ通行料をとり、彼らのルールに従わないものには武力を用いたのである。三島村上氏は当初小勢力に過ぎなかったが次第に勢力を拡大し周辺海域の海運を掌握していく。その中で因島村上氏は本州側の主要航路である”安芸地乗り”を抑え、航路周辺に海城や見張り台を構築していき、その付近の岩礁には船の係留場所が設けられ、海岸部では平地を埋め立て兵站および生活拠点を形成していた。そこには海産物の加工場や、造船および修理場もあったことがわかっている。また菩提寺として金蓮寺...島で最初に建立された寺である...を建立するなど、文化人としての顔も持ち合わせていた。 因島村上氏と他の三島村上氏との大きな違いは、早くから山陽側の大名と結びついていき、所領を持っていたことである。日明貿易の頃には因島村上氏村上吉資は備後守護大名である山名氏に取り入り遣明船の警固衆つまり護衛を命じられている。またこの島の西側は小早川水軍の縄張りであり小早川氏とも関係を深めていき、村上吉充の時代である天文24年(1555年)厳島の戦いの際には小早川水軍とともに毛利氏に加勢し、この勝利により北側の向島の所領を与えられた。現在因島水軍城に展示されている室町時代末期作の軽武装用鎧”白紫緋糸段威腹巻 附兜眉庇”は吉充が小早川隆景より拝領したと伝わっている。以降毛利氏の下につき(毛利水軍)、防長経略・門司城の戦い・第一次木津川口の戦いなどに従軍した。 以下、因島にある因島村上氏関連の主な城址を列挙する。村上氏と関係ないものも含めこれ以外にも城址はある。また他の島にも因島村上氏の城があるがここでは記載を省略する。 青木城跡 : 重井、県史跡。本城。 幸崎城跡 : 大浜、市史跡。村上吉房の居城。 青陰城跡 : 中庄・田熊、県史跡。重臣・救井義親の居城。 千守城跡 : 三庄、市史跡。旧小早川氏居城、後に村上氏の篠塚貞忠の居城。 美可崎城跡 : 三庄、市史跡。警固料を徴収した金山亦兵衛康時が城番を務めた。 長崎城跡 : 土生、県史跡。因島に最初に構えた城。 縄張りの最大範囲は、東端が現在の福山市域になる走島あたりで、田島・百島には城があった。南側は弓削島・岩城島・生名島にも支配権があった。西側は生口氏(小早川氏系)が支配していた生口島であるが、生口島の南側一部を一時的に支配していた。 豊臣秀吉が天下を統一して以降の事になる天正16年(1588年)海賊停止令により、海賊(水軍)勢力としての村上氏は解体された。
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