中世の武家勢力とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 中世の武家勢力の意味・解説 

中世の武家勢力

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/29 14:36 UTC 版)

向島 (広島県)」の記事における「中世の武家勢力」の解説

川尻地区覚明神社伝承によると、寿永3年1184年粟津の戦い敗れた源義仲勢の覚明義仲嫡子源義重家臣30人あまり引き連れ川尻地区落ち延び当地開拓した後、覚明と義重は家臣残し信州戻っていったという。 江奥地区の吉原家によると、吉原家は中原藤原)親能の子孫で、文明年間1469年から1486年向島移り向東町吉原城を拠点とし、江戸時代帰農そして向島西村庄屋となったという。 また、この島の南は因島村上氏村上水軍)の拠点であったことから、この島にも水軍海賊)の城跡幾つか存在する尾道水道ほぼ中央付近に小歌島(おかじま)」という小さな丘陵地がある。ここには中世宇賀島(あるいは岡島)と呼ばれた一つの島で宇賀島衆という海賊水軍)が拠点とした「岡島城」があった。彼らは当時尾道水道を通る船舶から関料を徴収しており、宋希璟(『老松堂日本行録』)や梅林守龍(『梅林守龍周防下向日記』)は宇賀島衆に囲まれたことを書き記している。この宇賀島衆は天文23年1554年因島村上氏村上吉充手を組んだ小早川隆景によって攻め滅ぼされている。 弘治元年1555年)、厳島の戦いでの勝利により吉充は向島知行を賜わう。芸藩通志によると、吉充はこの島の南部因島との海峡である布刈瀬戸望め観音岬に「余崎城」を築き拠点としたとされる。ただ吉充がいた時期短く永禄10年1567年因島青木城拠点移し、余崎城の守り家臣の島居次郎資長がついたと言われている。また上記の岡島城もこの時代因島村上氏支配下にあり、関料を徴収していた。島の最高峰高見山村上氏見張り台置かれていたことに由来する

※この「中世の武家勢力」の解説は、「向島 (広島県)」の解説の一部です。
「中世の武家勢力」を含む「向島 (広島県)」の記事については、「向島 (広島県)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「中世の武家勢力」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「中世の武家勢力」の関連用語

中世の武家勢力のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



中世の武家勢力のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの向島 (広島県) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS