中世の歴史叙述におけるフランク人の起源
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「フランク人」の記事における「中世の歴史叙述におけるフランク人の起源」の解説
フランク人の起源についての情報は乏しい。ゲルマン人の一派であるゴート人の起源については、ゴート人の歴史家ヨルダネスが起源誌と言うべき『ゴート史(De origine actibusque Getarum)』を残し、ランゴバルド人についてはやはりランゴバルド人のパウルス・ディアコヌスによる『ランゴバルドの歴史(Historia Langobardorum)』等によってその起源が語られている。それに対しフランク人は上記のような部族の起源を語る歴史記述者を出さなかった。唯一、トゥールのグレゴリウスは、フランク人はパンノニアから出てトリンギア(Thoringia、テューリンゲン)に移住し、この地で他に比して高貴な家柄の者として「長髪の王」を推戴したという伝承を残している。このパンノニア起源伝承については歴史家の間で数多くの議論を巻き起こしている。 また、11世紀後半にケルンまたはジークブルクの無名の修道士が綴った『アンノの歌』は、天地創造から始まるその叙述の中でフランク人の起源についての伝説を記録している。それによれば『ガリア戦記』で語られるユリウス・カエサルのガリア征服は、実際にはドイツ地方の征服であるとされ、その際カエサルに征服された4つの集団の1つとして「高貴なるフランク人(古高地ドイツ語:Frankien din edilin)」が挙げられている」。そして、カエサル(=ローマ人)とフランク人は元来親族関係にあり、その共通の祖先はギリシア人がトロイアを滅ぼした時にその地からイタリアに移住したトロイア人であると伝えられる。そのトロイア人の指導者たちのうち、アエネイスに率いられた一団がローマを建設し、フランコ(Franko)という指導者に率いられた一団がライン河畔に「小トロイア」を建設し、フランク人が誕生したのだという。この伝説は史実からはかけ離れた虚構の物語であり、今日の歴史学的見地からは史料的価値を見出すことはできない。だが、フランス王は、フランク人の唯一の正統な後継者であることを自任していたため、王家であるカペー家の系譜をフランク人トロイア起源説に基づきトロイア人の英雄たちと接続した。そして神聖ローマ帝国にあってはドイツ地方とローマ帝国の歴史的同一性の根拠と見做された。このため、この伝説はフランス、ドイツ民族意識の確立過程や帝権イデオロギーに重大な影響を与えた。
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