中世の歴史叙述におけるフランク人の起源とは? わかりやすく解説

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中世の歴史叙述におけるフランク人の起源

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 05:30 UTC 版)

フランク人」の記事における「中世の歴史叙述におけるフランク人の起源」の解説

フランク人起源について情報乏しい。ゲルマン人一派であるゴート人起源については、ゴート人歴史家ヨルダネス起源と言うべき『ゴート史(De origine actibusque Getarum)』を残しランゴバルド人についてはやはりランゴバルド人パウルス・ディアコヌスによる『ランゴバルド歴史Historia Langobardorum)』等によってその起源語られている。それに対しフランク人上記のような部族起源を語る歴史記述者を出さなかった。唯一トゥールのグレゴリウスは、フランク人パンノニアから出てトリンギア(Thoringia、テューリンゲン)に移住し、この地で他に比して高貴な家柄の者として「長髪の王」を推戴したという伝承残している。このパンノニア起源伝承については歴史家の間で数多く議論巻き起こしている。 また、11世紀後半ケルンまたはジークブルク無名修道士綴ったアンノの歌』は、天地創造から始まるその叙述の中でフランク人起源について伝説記録している。それによればガリア戦記』で語られるユリウス・カエサルガリア征服は、実際にドイツ地方征服であるとされ、その際カエサル征服され4つ集団1つとして「高貴なフランク人古高地ドイツ語:Frankien din edilin)」が挙げられている」。そして、カエサル(=ローマ人)とフランク人元来親族関係にあり、その共通の祖先ギリシア人トロイア滅ぼした時にその地からイタリア移住したトロイア人であると伝えられる。そのトロイア人指導者たちのうち、アエネイス率いられ一団ローマ建設しフランコ(Franko)という指導者に率いられ一団ライン河畔に「小トロイア」を建設しフランク人誕生したのだという。この伝説は史実からはかけ離れた虚構物語であり、今日歴史学的見地から史料的価値見出すことはできない。だが、フランス王は、フランク人唯一の正統後継者であることを自任していたため、王家であるカペー家系譜フランク人トロイア起源説に基づきトロイア人英雄たちと接続した。そして神聖ローマ帝国にあってはドイツ地方ローマ帝国歴史的同一性根拠見做された。このためこの伝説はフランスドイツ民族意識確立過程帝権イデオロギー重大な影響与えた

※この「中世の歴史叙述におけるフランク人の起源」の解説は、「フランク人」の解説の一部です。
「中世の歴史叙述におけるフランク人の起源」を含む「フランク人」の記事については、「フランク人」の概要を参照ください。

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