中世の氏族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/21 15:19 UTC 版)
「スコットランドの氏族」の記事における「中世の氏族」の解説
12世紀から13世紀ごろに氏族が出揃うと、氏族は名目上はエディンバラのスコットランド王朝に従いつつも、ほぼ完全な自治権を有した。各氏族は互いに勢力争いを繰り返したが、統一氏族ができることはなかった。それぞれの氏族は厳密には異民族同士であり、恭順や取り込みという工作ができなかったためであり、また本気で敵対氏族を滅ぼすという発想もなかったためである。彼らの抗争は、境界線をめぐる小競り合いに止まっていた。 ダスカス(氏族の領地)の所有をめぐって、氏族間で争いになることがしばしばあった。自分の氏族に属すると思われていた農民が、他の氏族に地代を徴収されたりするという例が多く、こうした諍いが戦争に発展することになった。また、若者は通過儀礼として敵対氏族から牛を盗んでくる掟になっていた。かくしてハイランド地方の氏族社会は、諍いの種に尽きなかった。 また、スコットランド外側との関わりもあった。テューダー朝イングランドと対立していたアイルランドのゲール人勢力は、西岸地域の氏族を巻き込んでイングランドに相対した。しかしステュアート朝のジェームズ6世の時代に大規模なアイルランド植民政策がとられ、17世紀にはアイルランドとのつながりは薄れていった。 止まない紛争に、氏族たちは法律の整備で決着をつけようと試みた。牛泥棒の慣習は違法とされ、係争の和解のために家畜を贈ることが定められた。これは一定の成果をあげたが、これを守らない貴族もまた多く、氏族の法を破って盗賊集団と化する者もたびたび現れた。彼らはカテラン(caterans)と呼ばれた。カテランたちはグループをなして行動し、各地で略奪行為を働いたが、一方で屈強な兵士という評判も高く、ローランドの有力者に傭兵として抱えられることもあった。 一方で、ハイランド・ゲームという祝祭も催された。これは12世紀ごろにその起源が遡るとされるが、各氏族が集まって剣闘や重量挙げなど最強の戦士を決めるコンテストであった。定期的に行われたのか、継続して行われたのか、またどのような競技があったのかなど、その歴史については不明の部分が多い。廃れた時期もあったが、18世紀後半に『オシアン』による氏族復活劇が興ると、その波に乗って復活し民族の伝統行事の地位を得た。
※この「中世の氏族」の解説は、「スコットランドの氏族」の解説の一部です。
「中世の氏族」を含む「スコットランドの氏族」の記事については、「スコットランドの氏族」の概要を参照ください。
- 中世の氏族のページへのリンク