『オシアン』
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「ジェイムズ・マクファーソン (詩人)」の記事における「『オシアン』」の解説
1761年、マクファーソンは、スコットランド・ハイランド地方の太古の英雄詩人オシアンが作して歌ったとする、英雄フィンガルにまつわる一大叙事詩を発見したと発表し、12月に『フィンガル(Fingal, an Ancient Epic Poem in Six Books, together with Several Other Poems composed by Ossian, the Son of Fingal, translated from the Gaelic Language)』を、1763年には『テモラ(Temora)』(『タイモーラ』)、1765年には集成版『オシアン(The Works of Ossian)』を出した。これら作品は、名目上は「詩」であるが、じつは音楽的なリズムを持った散文で書かれているのが特徴である。 この英雄詩人オシアンの原型は、アイルランドの伝説の英雄詩人オシーン(Oisín)であり、フィンガルのモデルも、フィン物語群の主人公で英雄詩人の父親フィン・マックールであるはずである。しかしマクファーソンは、これらをアイルランド出身ではなく、純粋にスコットランドの土着の英雄たちという設定で登場させたことで、のちにアイルランドから痛烈に排撃されることになる。 オシアンは、ゲール語名オシェンの英語化名(en:anglicization)であるが、日本ではオシァンというカナ表記が従来用いられてきた。「フィンガル(Fingal, Fionnghall)」という綴りは、いささか特異で、真作のゲール語詩でも「フィン」の方が一般的であるが、ジョン・バーバー(英語版)(1395年没)の『ブルース』(ロバート1世 (スコットランド王)伝)にもフィンガル(Fyngal)の語形が認められるとされている。フィンガルの意味は「白い異邦人」と解され、ケルト人がゴート人(ゲルマン系)をそう呼んだとの説もある。 当時は、原文を自由訳することも、創作部分の混入も日常茶飯事だったが、ただ、マクファーソンは、自分の「翻訳」が、一字一句たがわず、英雄詩人オシアンが書いた本物のゲール語詩だと喧伝したことで、非難を浴びる結果となった。作品を読めば、明らかに現代風であり、西暦3世紀の作品ではありえないとの感想。また、ハイランド地方は文盲であり、スコットランド・ゲール語は、口承のみの言語であり、そんな千年余前の大昔から、口伝えで完全に保存される文学など不可能、などの批判であった。 また、集めた写本から訳しているとも主張したことが、論争のひとつの焦点になった。なかでも強力な弾劾論者がサミュエル・ジョンソン博士で、「百年と古いと証明できるアース語(スコットランド・ゲール語)は、500行と回収できまいと存ずる。だがオシアンの生みの父は、櫃に二箱分の古歌をまだ温めているが、イギリス人にはもったいないと吹聴していると聞き及ぶ」と極論したことは、つとに有名である(『スコットランド西方諸島の旅(A Journey to the Western Islands of Scotland)』(1775年))。これはいささか過言な毒舌であるが、要するにスコットランド語で、オシァンの詩が書かれた原文の写本があれば見せてみろと挑発しつづけたのである。に対し、マクファーソンは誰にもはっきりと開放的に写本を提示することはなく、ジョンソン博士がその言を撤回しないと危害を加えるという恐喝状(一説では決闘の挑戦状)を送りつけたことも有名である。 ジョンソンについては、ゲール語を解さず、スコットランド人に対して偏見保持者との定評がある。マクファーソンの文才も認めずに嘲笑した。公正な批評家ではないとの見方もされる。だが実は、マクファーソンの作品のよき理解者でもあった、スコットランドの哲人デイヴィッド・ヒュームも、『フィンガル』の原文写本を公開して「証拠提出」してみせるべきだという忠告を、マクファーソン陣に対して、かなり早期(1763年)におこなっている。さらには、ハイランド地方の詩吟者がいるという証拠を、その出身、氏名、および『オシァン詩集』の何ページ目を詩吟できるか等のデータとして記録せよ、との手法論も提示していた。(これは、注目に値することで、なぜなら後世の学者スキーンは、この頃はまだ口承文学を厳密に採集するなどまったく未知のものだった、などと解説しているからだ)。だが、このヒュームの勧告に対しても、マクファーソンは逆上してみせたといわれる。 結局、マクファーソンは、三十余年後に没するまで、オリジナルの写本を部外者に公開することはしなかった。一般公開はしたとは口承しているが、がぜん、見たと証言する者が、オシァン作成に関わった内輪の人間ばかりだった。とどのつまり、マクファーソンは、詩や物語の断片を見つけ、それらを自身の創作であるロマンスの中に織り込んだのだろうという意見が、ジョンソン博士のみならず、他の知識人や一般層にもだんだん浸透することになった。 マクファーソンの死後、スコットランド・ハイランド協会は当事者たちから貴重な証言を集大成して報告書(Mackenzie 1805)にまとめた。この報告は、きっぱりとした結論を明文化しなかったため、その後も賛否両論者の間で、あらゆる証拠が都合のいいように取沙汰された。しかし、報告書のなかに垣間見える結論は、後年のウィリアム・スキーン(英語版)よれば、次のようなものである:1. マクファーソンの詩の登場人物は捏造ではなく、実際にハイランドに伝わる伝説人物である。オシアン詩ともいえる詩は実在した。2. そうした詩は、ほとんど短詩だが、いつ頃からか伝承され、暗誦できる人間もハイランドに実在する。3. なかには写本(MSS.)に記録される詩もある。4. マクファーソンは、そうした詩を使用したが、別個の破片をつなぎ合わせるのに自作の接続的説話(connective narrative of his own)を足し合わせて、より長い詩や、いわゆる長編叙事詩(epic)に編み込んだ。(MacLauchlan 1862)。スキーンは、以上の結論に、有識の知識人も偏見をもたない一般世間も誰もが同調するはずだ、と言い、ただ、マクファーソンが加工した度合いが、純粋な古歌に比してどのくらいだったかについて、議論が分かれる、と言っている(1862年当時)。 さらには1807年に、オシァン詩集のゲール語版である『フィンの息子オシァンの歌 (Dana Oisin Mhic Finn)』が出版された。これはマクファーソン自筆の遺稿から出版されている。近年の日本語訳者はこれを真正のゲール古歌とするが、これもマクファーソンやその関係者による創作とみなすのが一般論である(#写本の謎参照)。
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