中世の歴史書にみられるモルダヴィアの民族性
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「モルドバの言語・民族性問題」の記事における「中世の歴史書にみられるモルダヴィアの民族性」の解説
@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}中世のモルダヴィアの歴史書[要出典]では、モルダヴィアの人々は自身をモルドヴェニ(Moldoveni、現在のモルドヴァ人と同じ)と呼んでおり、モルダヴィア人、ワラキア人、トランシルヴァニア人は同一の起源を持ち、同一の言語を話すと記している。モルダヴィア公シュテファン3世(1457年 - 1504年)は、1457年から1499年までを対象とした歴史書の編纂を命じたが、書名は「Dy Cronycke Des Stephen Woywoda auss Wallachey(ワラキア公シュテファンの歴史書)」と付けられた。モルダヴィアの重要な年代史家であるグリゴレ・ウレケ(Grigore Ureche、1590年 - 1647年)は、ハンガリー王国領内のルーマニア人とモルダヴィア人はともに「ローマの民」であり、同一の起源を持つとしている。また、ミロン・コスティン(Miron Costin、1633年 - 1691年)は、自身が執筆した歴史書の中で、モルダヴィア人の「最も真正で確かな」呼称は、ローマ帝国に由来する名である「Rumân」であり、その呼称は民族の歴史の中でずっと保たれてきたとしている。更に、モルダヴィア人は「あなたはモルダヴィア語を話すか?」とは言わず、「あなたはルーマニア語を話すか?」と尋ねると述べている。ミロン・コスティンの息子、ニコラエ・コスティン(Nicolae Costin、1660年 - 1712年)もまた、著書の中で父と同様の見解を述べている。ワラキアの年代史家コンスタンティン・カンタクジノ(Constantin Cantacuzino、1655年 - 1716年)は、自身の述べるところのルーマニア人とは、ワラキアに住むルーマニア人、トランシルヴァニアに住むもの、モルダヴィア人であり、これらはいずれも同じ言語を話し、同一の起源を持つとしている。年代史家でモルダヴィア公、プロイセン科学アカデミの会員であるディミトリエ・カンテミール(1673年 - 1723年)は複数の歴史に関する本を著している。そのうちひとつは「Hronicul vechimei a Romano-Moldo-Vlahilor(ルーマニア・モルドバ・ワラキアの永続性の記録)と題され、プロイセン科学アカデミーの求めに応じてペテルスブルクにて執筆された。はじめはラテン語で書かれ、後にカンテミールによってルーマニア語に翻訳された。導入部にてカンテミールは、これは全てのルーマニア人の地に関する歴史書である(Hronicon a toată Ţara Românească)とし、これが後にモルダヴィア、ワラキア、トランシルヴァニアに別れた(care apoi s-au împărţit în Moldova, Muntenească şi Ardealul)ものだと述べ、同書がはじめはラテン語で(pre limba latinească)書かれ、後にルーマニア語に(pre limba românească)翻訳されたものだとしている。この中でトランシルヴァニア人、モルダヴィア人、ワラキア人はともにルーマニア人と呼ばれる(carii cu toţii cu un nume de obşte români să chiamă)と書いている。
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