蟹江合戦の経過
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天正12年6月16日午前、安宅船を擁する九鬼水軍と滝川一益の兵3千が蟹江浦に現れる。前田長定は、滝川一益の調略を受け入れ、佐久間信辰を本丸から退去させた。同時に長定の弟・前田長俊(利定)の守る下市場城及び、長男・前田長種の守る前田城も秀吉陣営となったが、大野城の山口重政は母親を人質に取られているにも関わらず調略に応じなかった為、16日の夕刻、滝川、九鬼、前田勢は城攻めを行い、陥落寸前まで追い込んだという。 蟹江城落城の報せを聞いた長島城の織田信雄は兵2千を率いて16日の夜日のうちに大野城に急行、清州城の徳川家康も手勢を率いて17日早朝には戸田村に本陣構えた。信雄は大野城に入城し、大野城攻めに失敗した滝川勢は蟹江城に、九鬼勢は下市場城にそれぞれ逃れ篭城した。 翌6月18日、家康と信雄は2万の兵を率いて、蟹江城、前田城、下市場城の3城を包囲した。 下市場城・前田城における配置(6月18日)城城方大手(攻め方)搦手(攻め方)追手・海手(攻め方)先鋒(攻め方)下市場城前田長俊 菅沼定盈松平家信設楽貞光 松平親乗酒井重忠内藤政長長島平蔵 松平清定松平親次大須賀康高榊原康政 酒井忠次岡部長盛山口重政 前田城前田長種 石川数正 阿部信勝 同日、織田・徳川勢は下市場城を集中的に攻撃して城を落とし、前田長俊を討ち取っている。 6月19日、舟入の戦いにおいて九鬼嘉隆が敗北。織田・徳川陣営による海上封鎖が完成する。 6月20日、蟹江城において、家康が東から、南と西から信雄が城を攻める。 6月21日、秀吉が美濃から近江・佐和山城に移る。 6月22日、蟹江城において、織田信雄と徳川家康が総攻撃を仕掛ける。 蟹江城における両軍の配置(6月22日)配置城方攻め方本陣滝川一益滝川一忠滝川儀太夫津田藤三郎 織田信雄、織田長益、水野忠重、(水野勝成)、佐久間信栄、(山口重政)徳川家康、石川数正、井伊直政、本多忠勝、榊原康政、(松平家忠) 海門寺口(南)谷崎忠右衛門 天野雄光、丹羽氏次酒井忠次、(酒井忠利、松平康安、内藤家長、久松定勝) 前田口(東)日置五左衛門 松平康忠、(服部正成) 乾口(北西)滝川忠征 織田信雄大須賀康高 注:()は大将未満の攻め方 22日の合戦の経過大手口である海門寺口の大将格であった酒井忠次の率いる兵は連日の激戦で疲労し、夕刻、代わって榊原康政、松平家忠の兵が海門寺口に入った。 滝川一益は守備兵を集約するため、一度夜陰に紛れて各城門から城外に打って出て、その後、三の丸を放棄し二の丸に撤収しようとするが、海門寺口だけは苦戦し谷崎忠右衛門の率いる城兵は城外で包囲されてしまう。滝川一益は怒り自ら門役を務めこの城兵を二の丸まで収容したが、谷崎忠右衛門はこの日の鉄砲傷がもとで3日後に死亡したと伝わる。 滝川一忠は前田口において二の丸に退く殿の将を務め、攻め方の水野勝成と切り合い、双方傷を負ったと伝わる。 6月23日、石川数正と阿部信勝が攻めていた前田長種の守る前田城が開城し、徳川家康が榊原康政を伴い入城する。 6月24日、秀吉が一益の蟹江城攻略を知り、近江・土山に移る。 6月25日、秀吉が伊勢・椋本に移り、信濃の木曾義昌に尾州西側からの総攻撃予定を伝える。 6月29日、和平交渉が開始される。 7月3日、蟹江城が徳川・織田勢に引き渡されるが、和睦にもかかわらず退去中の前田長定が殺害され、滝川一益は殺害を免れ伊勢に逃れた。(三河物語では、「(7月3日)一益は逃げて助かったものの、長定は逃してはならないとされ同船していた女房子供共々討ちとった」と書かれているのに対し、後世の家忠日記増補や小牧陣始末記では、「7月2日に甥の滝川源八郎が逃亡する長定を討ち取った」と書かれ、滝川一益が前田長定を殺害したことに変更されている。)滝川は伊勢神戸城に逃れるが、同城を守備していた富田一白に怪しまれ、入城できずに追い返されている。 秀吉は、伊勢に羽柴秀長、丹羽長重、堀秀政ら6万2千の兵を集めて7月15日に尾張の西側から総攻撃を計画していたが、間に合わず中止となった。
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