武田道安
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/16 18:38 UTC 版)
武田 道安(たけだ どうあん)は、江戸時代前期の医師[2]。後水尾天皇や東福門院、徳川秀忠・家光父子らの診療にあたった[2]当時の高名な医師であり、儒学[2]・漢詩[注釈 3]や茶の湯などにも通じた。諱は信重(のぶしげ)[1][2]、院号は猟徳院[1][2]。
注釈
- ^ 『寛政譜』に「私に諡して純粋と称す」とある[1]。
- ^ 松平安芸守(広島藩浅野家)家臣[1]。
- ^ 漢詩人を列挙したリストに武田道安(武田信重)の名が見える[3][4]。
- ^ 『寛永諸家系図伝』によれば、足利尊氏に仕えて安芸国守護となった武田信武の四男・武田直信の子孫というが[5]。父の信治に至るまでの代数が明らかに不足していることが指摘されている[5]。『寛政重修諸家譜』編纂時に武田家は信重(道安)から始まる系譜を提出したという[5]。
- ^ a b 『長陽従臣略系』に記載があるという[6]。
- ^ 「河野四郎通直に属す」とある[5]。戦国期の河野氏には「河野通直」を称した人物が複数いるため錯綜しているが、『寛政譜』では河野家最後の当主となった人物(河野伊予守通直)の通称が「四郎」とされている[7]。
- ^ 織田信雄は土方雄久・天野雄光を派遣して秀吉にとりなし、信治を剃髪させることで死罪に代えたという[5]。
- ^ 英甫永雄は若狭武田家出身。
- ^ 後光明天皇の容体悪化に伴う。
- ^ 祖父の北村宗龍は翠竹院曲直瀬道三に学んで安芸の毛利元康に仕え、父の北村宗円も延寿院曲直瀬玄朔に学んだ[12]。
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab 『寛政重修諸家譜』巻第百五十六「武田」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.926。
- ^ a b c d e “武田道安”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2022年8月19日閲覧。
- ^ “日本の漢詩人と名詩 第三巻目次”. 国立国会図書館. 2022年8月19日閲覧。
- ^ 高橋要「『熙朝詩薈』の作者総目 -近世漢詩総集『熙朝詩薈』についての基礎的研究 (一)-」『石川工業高等専門学校紀要』第45巻、2013年、 108頁、 doi:10.20763/inctkiyoupre.KJ00005074515、2022年8月19日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i 『寛政重修諸家譜』巻第百五十六「武田」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.925。
- ^ “杉原春良の子供たち”. 伊予の戦国史 (2009年12月7日). 2022年8月19日閲覧。
- ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第六百二「河野」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.153。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第百五十六「武田」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』pp.925-926。
- ^ a b c 谷晃・矢ケ崎善太郎校訂 2010, p. 607.
- ^ 谷晃・矢ケ崎善太郎校訂 2010, pp. 606–607.
- ^ a b 榎坂浩尚 1991, p. 7.
- ^ a b c d 榎坂浩尚 1991, p. 3.
- ^ 榎坂浩尚 1991, pp. 1–2.
- ^ a b 榎坂浩尚 1991, p. 4.
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第百五十六「武田」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.927。
- ^ “伊沢蘭軒”. 日本大百科全書(ニッポニカ). 2022年8月19日閲覧。
- ^ “武田道安”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2022年8月19日閲覧。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第百五十六「武田」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.928。
- 武田道安のページへのリンク