戸次川の戦いと最期とは? わかりやすく解説

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戸次川の戦いと最期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/13 04:19 UTC 版)

長宗我部信親」の記事における「戸次川の戦いと最期」の解説

詳細は「戸次川の戦い」を参照 天正14年4月5日豊後大友宗麟豊臣秀吉大坂面会し島津義久豊後進入してきたことを訴え救援求めた秀吉はこれを了承し黒田孝高毛利の兵を総括させて先発させ、さらに讃岐仙石秀久主将にし、長宗我部元親信親加え豊後出陣命じた島津家久豊後侵入し大友氏鶴ヶ城攻撃した12月11日仙石秀久長宗我部信親は、これを救援しようと戸次川に陣をしいた。戦略会議において仙石秀久は川を渡り攻撃するべきと主張した(『土佐物語』)。これに対して長宗我部元親加勢待ちそれから合戦に及ぶべきであるとして、仙石作戦反対をしたが(『元親記』『土佐物語』)、仙石聞き入れず十河存保仙石同調したこのため川を渡って出陣することになり戦闘12月12日夕方から13日にかけて行われた信親仙石決定批判し家臣に対して信親明日討死定めたり。今日軍評定軍監仙石秀久一存によって、明日、川を越えて戦うと決まりたり。地形の利を考えるに、この方より川を渡る事、罠に臨むのごとし。全くの自滅と同じ」と吐き捨てたという(『土佐物語』)。 合戦当日先陣仙石部隊真っ先敗走したため、長宗我部の3千の兵が新納大膳亮の5千の兵と戦闘状態になったが、元親と信親乱戦中に離ればなれになってしまった。元親は落ちのびることができたが、信親中津留川原に留まったものの、鈴木大膳に討たれた。享年22信親桑名太朗左衛門退却促されたが引かず、四尺三寸大長刀振るい8人を斬り伏せた。敵が近く寄ってくると長刀捨て今度太刀で6人を斬り伏せとされる(『元親記』)。信親に従っていた700人も討死にし、十河存保戦死し鶴ヶ城落城した。 戦後、元親は信親戦死悲しみ谷忠澄使者として島津の陣に遣わし信親遺骸乞い受けて、高野山奥の院納めたが、のちに分骨して高知市長浜の天甫寺に埋葬した

※この「戸次川の戦いと最期」の解説は、「長宗我部信親」の解説の一部です。
「戸次川の戦いと最期」を含む「長宗我部信親」の記事については、「長宗我部信親」の概要を参照ください。

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