戸次川の合戦において戦死した土佐武士のための鎮魂碑とは? わかりやすく解説

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戸次川の合戦において戦死した土佐武士のための鎮魂碑

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 02:33 UTC 版)

山崎山重」の記事における「戸次川の合戦において戦死した土佐武士のための鎮魂碑」の解説

天正14年1586年12月12日豊臣秀吉の命を受けた四国勢6,000余と大友勢の連合軍は、優勢な島津18,000戸次川原で激突した四国勢戦死者二千超える殲滅戦となった戸次河原長宗我部信親及び家来700余人土佐武士の最も壮烈極めた終焉の地である。この地に昭和61年8月平成14年8月に二基の鎮魂碑建立されている。そこに山崎玄蕃丞盛高、惣兵衛伝兵衛の名が刻まれている。鎮魂碑建立発起人鴨部山﨑一族高知大学名誉教授故山﨑重明(しげとし)氏である。平成14年建立鎮魂碑には山﨑伝兵衛は「片岡家中」と刻まれ物部山﨑家一族ではなく片岡家関連人物とされている。なお、この伝兵衛という人物は『在所村史』39頁には韮生郷白石の轡(くつわ)城主山﨑氏の一族とされている。おそらくこの後者が正しいと思われる長宗我部信親終焉の地ほど近いところに成大寺(じょうだいじ)がある。ここに鶴賀城主利光宗魚の墓がある。また信親をはじめとした土佐700人衆の供養碑もある。毎月17日地元有志方々によって慰霊祭が行われている。この戦による多く亡骸山崎台に葬られた。山崎台には信親公の墓がある。そのほかに鎧塚や十河存保の墓もあり、ここでは毎年12月12日地元住民によって慰霊祭執り行われている。さらに鎮魂とともに地元では戸次川の合戦伝承地域おこしのために大野川合戦まつりが毎年11月開催されている。

※この「戸次川の合戦において戦死した土佐武士のための鎮魂碑」の解説は、「山崎山重」の解説の一部です。
「戸次川の合戦において戦死した土佐武士のための鎮魂碑」を含む「山崎山重」の記事については、「山崎山重」の概要を参照ください。

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