戸次川の合戦において戦死した土佐武士のための鎮魂碑
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天正14年〈1586年〉12月12日、豊臣秀吉の命を受けた四国勢6,000余と大友勢の連合軍は、優勢な島津勢18,000と戸次川原で激突した。四国勢の戦死者二千を超える殲滅戦となった。戸次河原は長宗我部信親及び家来700余人の土佐武士の最も壮烈を極めた終焉の地である。この地に昭和61年8月と平成14年8月に二基の鎮魂碑が建立されている。そこに山崎玄蕃丞盛高、惣兵衛、伝兵衛の名が刻まれている。鎮魂碑建立の発起人は鴨部山﨑家一族で高知大学名誉教授の故山﨑重明(しげとし)氏である。平成14年建立の鎮魂碑には山﨑伝兵衛は「片岡家中」と刻まれ、物部山﨑家の一族ではなく、片岡家の関連人物とされている。なお、この伝兵衛という人物は『在所村史』39頁には韮生郷白石の轡(くつわ)城主山﨑氏の一族とされている。おそらくこの後者が正しいと思われる。 長宗我部信親の終焉の地にほど近いところに成大寺(じょうだいじ)がある。ここに鶴賀城主利光宗魚の墓がある。また信親をはじめとした土佐兵700人衆の供養碑もある。毎月17日に地元の有志の方々によって慰霊祭が行われている。この戦による多くの亡骸が山崎台に葬られた。山崎台には信親公の墓がある。そのほかに鎧塚や十河存保の墓もあり、ここでは毎年12月12日に地元の住民によって慰霊祭が執り行われている。さらに鎮魂とともに地元では戸次川の合戦の伝承と地域おこしのために大野川合戦まつりが毎年11月に開催されている。
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