豊臣一家となる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 09:05 UTC 版)
天正16年(1588年)2月に秀吉に謁見するため、上洛。秀吉から非常に気に入られたとされ、羽柴(後に豊臣)の姓を下賜され、さらに、秀吉から偏諱(「吉」の一字)を与えられて義統から吉統へと改名した。また従四位下、侍従に叙され、後の文禄の役の年の@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}正月には参議ともなった[要出典]。 天正18年(1590年)の小田原征伐では豊臣軍の一員として参戦している。 天正20年(1592年)、文禄の役に黒田長政勢5,000と共に第三軍として兵6,000を率いて参戦。長政に同行して金海城の戦いなどで活躍した。同年2月には嫡子・大友義乗に家督を譲り、自身は酒好きであったが、下戸に徹するようになど、公私にわたった21ヶ条の家訓を伝えている。
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