豊後府内改易とは? わかりやすく解説

豊後府内改易

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 09:05 UTC 版)

大友義統」の記事における「豊後府内改易」の解説

文禄2年1593年)、平壌城の戦いで明の大軍包囲されていた小西行長から救援要請受けたが、行長戦死したという家臣からの誤報信じて撤退し鳳山城も放棄した。ところが行長は自力脱出したことから、吉統は結果的に窮地味方見捨てた格好になった。これが秀吉逆鱗触れ、軍目付熊谷直盛福原直高派遣され詰問されて名護屋城召還命じられる。 吉統は剃髪して宗厳号し大友家源頼朝以来由緒ある家であるとして死一等減じられたものの、石田三成らの意見聞いた秀吉から5月1日改易言い渡された。大友であった豊後および豊前宇佐郡は豊臣家蔵入地(直割地)となり、のちに豊臣家奉行等の領地としても細かく分割された。

※この「豊後府内改易」の解説は、「大友義統」の解説の一部です。
「豊後府内改易」を含む「大友義統」の記事については、「大友義統」の概要を参照ください。

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