豊後斎藤氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 17:37 UTC 版)
豊後の斎藤氏は、大友氏に重臣として仕えた。豊後国海部郡丹生庄を根拠地とした。長井別当として知られる斎藤実盛の妻の甥・宮六傔仗国平(宮道国平)が祖と考えられているが、定かではない。南北朝時代に主家の大友貞載(または大友貞宗)が守護職を補任され、斎藤正遍(または斎藤遍正)がその守護代に任じられた。大友氏が肥前守護でなくなると、斎藤氏も肥前守護代でなくなり、それ以後戦国時代までほとんど動向がわかっていない。 戦国時代に入り、斎藤隆実・斎藤長実父子が大友氏の加判衆してその名が現れる。長実は加判衆として大友義鑑に仕えた重臣であったが、大友氏の家督問題で主君・義鑑と対立し殺害され、これが原因で二階崩れの変が勃発する。この家督争いは大友義鎮(宗麟)が継ぐことで治まった。長実の子斎藤鎮実は家督・所領を安堵され、義鎮に重用されたが、耳川の戦いにおいて戦死した。これにより斎藤氏は没落したが、その血筋は外孫の立花宗茂・直次兄弟に継承されて外様大名として後世に残った。
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