吉川之経とは? わかりやすく解説

吉川之経

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/24 16:22 UTC 版)

 
吉川之経
時代 室町時代中期 - 戦国時代前期
生誕 応永22年(1415年
死没 文明9年1月7日1477年1月21日[1]
改名 吉川経幸[2]→吉川之経
戒名 大智院正観中公[1]
官位 左衛門大夫[1]伊豆守[1]
主君 室町幕府足利将軍家
氏族 藤原南家工藤流吉川氏
父母 父:吉川経信[1]
兄弟 女(庄伊豆守室)[1]之経宮庄経友[1][3]
志路原信経[1][3]、大塚経方[1][3]
女(宍戸元家室、村上某室)[1]、女(河上讃岐守室)[1]
経基[1][3]、元信、経清[1]、昌雲妙永(出羽祐盛室)[1]、智光(福屋教兼室)[1]
テンプレートを表示

吉川 之経(きっかわ ゆきつね)は、室町時代中期から戦国時代前期にかけての武将安芸国山県郡大朝新庄[注釈 1]を本拠とする国人吉川氏10代当主。

生涯

応永22年(1415年)、安芸国山県郡大朝新庄[注釈 1]を本拠とする国人吉川経信の嫡男として生まれる[1]

康正2年(1456年2月10日、父・経信の死去により家督を継ぎ、安芸国分郡守護武田信賢と所領を巡って争うが、小早川氏の仲介を受けて和解している。

長禄元年(1457年)、周防国長門国守護・大内教弘厳島神主家との関係で武田信繁佐東銀山城を攻めた際には、管領細川勝元の命を受けて毛利煕元ら安芸国人と共に信繁を支援して大内軍を撃退した(山本合戦)。その後、子の経基に実権を譲渡している。

応仁元年(1467年)から始まる応仁の乱では、東軍の細川方に加わって京都へと出兵し、相国寺周辺での戦闘にも参加した。この京都周辺での戦闘において嫡男の経基が勇戦奮闘し、その武勇を天下に轟かせた。

文明9年(1477年1月7日に死去[1]享年63。吉川氏の本拠である安芸国山県郡新庄の正観院に葬られた[1]

脚注

注釈

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 近世防長諸家系図綜覧 1966, p. 39.
  2. ^ 今井尭ほか編 1984, p. 333.
  3. ^ a b c d 光成準治 2016, p. 328, 吉川氏系図.

参考文献





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「吉川之経」の関連用語

吉川之経のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



吉川之経のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの吉川之経 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS