水攻めの開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 06:08 UTC 版)
秀吉は毛利輝元との直接対決に備えて、甲斐武田氏を滅亡させたばかりの主君・信長に対して援軍を送るよう使者を向かわせた。信長からは丹波を平定させた明智光秀の軍を送るとの返事を得たものの、1日も早く備中高松城を落城させよという厳しい命が下っている状況において、秀吉は水攻めを行うことを決定した。低湿地にある沼城という本来なら城攻めを困難にさせるはずの利点を逆手に取った奇策であったといえる。 秀吉は即座に堤防工事に着手した。この堤防は門前村(現:JR吉備線足守駅付近)から蛙ヶ鼻(石井山南麓)までの東南約4キロメートル、高さ8メートル、底部24メートル、上幅12メートルにわたる堅固な長堤を造り、足守川の水をせきとめようとするものであった。堤防の高さについては、堤防の調査に先立って行われた高松城の調査から、標高5mほどであったと推測されている。築堤奉行には蜂須賀正勝が任命され、宇喜多忠家が黒田孝高の指導のもと難所の門前村から下出田村までを担当(この場所の工事奉行は宇喜多氏家臣の千原勝則とも言われる)。原古才村を蜂須賀氏が、松井から本小山までを堀尾吉晴、生駒親正、木下備中、桑山重晴、戸田正治らが、蛙ヶ鼻より先を但馬衆が担当することとなり、浅野長政は船や船頭を集めて備中高松城が湖に浮かぶ島になった際の城攻めの準備にあたった。また足守川の堰止方法は黒田家臣の吉田長利の献策ともいう。工事には士卒や農民らを動員し、1俵に付き銭100文、米1升という当時としては非常に高額な報酬を与えた。堤防は5月8日の工事着手からわずか12日で完成し、折しも梅雨の時期にあたって降り続いた雨によって足守川が増水して200haもの湖が出現。高松城は孤島と化してしまった。堤防を完成させた秀吉は堤防の上に見張り場を設けて城内の様子を監視した。 なお、書籍によっては竜王山麓を流れる長野川からも水を引いたとしているものもあるが[要出典]、水路跡などは発見されておらず、長野川を利用したと言うのは後世に加筆された伝説である[要出典]。 一方、城内では水攻めという戦法に動揺し、物資の補給路を断たれて兵糧米が少なくなったことと、毛利輝元、小早川隆景、吉川元春ら毛利氏の援軍が来ないことも相まって兵の士気も低下。城内まで浸水したため、城兵は小舟で連絡を取り合わなくてはならなかったとされる。 同月、輝元は急報を受けて、元春・隆景らと共に軍勢を率い、高松城の救援に向かった。このとき、毛利氏の軍勢の総数は、秀吉自身の手紙(『浅野家文書』)によると5万ばかり、『惟任退治記』によると8万余と記されている。だが、この数は秀吉によって水増しされた数ともいわれ、毛利氏は分国が不安定なこともあって、実際は1万の兵しか動員できなかったとする説もある。 そして、輝元は猿掛城に布陣し、高松城に近い岩崎山(庚申山)に元春、その南方の日差山に隆景を布陣させ、秀吉と対峙する。だが、既に堤防は完成しており、輝元らは秀吉の築いた湖を前にして身動きがつかず、5月21日になって輝元は元春とともに織田勢と対峙する位置に陣を移したほどだった。さらに、信長自らが本能寺で備中に赴く準備をしており、毛利氏は危機的な状況に陥った。
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