艦長としての操艦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 00:08 UTC 版)
その山梨も、艦長としての操艦はすこぶるつきの下手で、特に入港時の操艦では、そばにいる者をハラハラさせどおしであった、と富岡定俊少将(海兵45期)が回想している。山梨が艦長を務めたのは「香取」艦長の1回のみ(1917年(大正6年)12月1日から1年間)だが、この時点では「軍艦職員勤務令」で「艦長は其の出入港、狭小なる水路の通過及艦隊陣形変換等の時は必ず自ら其の艦の運用を掌るべし」と規定され、艦長に入港時の操艦義務が課されていた。山梨が「香取」艦長を退任した翌年、1919年(大正8年)に、新たに「艦船職員服務規定」が制定され、駆逐艦・潜水艦のような小艦艇を除き、出入港など注意を要する状況においても航海長が操艦することが許された。 一方、山梨が「香取」艦長を務めていた時に、同艦に少尉として乗組んでいた栗原悦蔵少将(海兵44期)は、「香取」艦長としての山梨の操艦について「最初は不慣れであったものの、すぐに僚艦の艦長と同等レベルまで上達した」という趣旨を述べている。栗原は「初級士官時代に『香取』で山梨の薫陶を受けたのは一生の収穫であった」という趣旨を述べており、後年も、山梨と会うたびに「香取」時代の思い出話が尽きなかった。
※この「艦長としての操艦」の解説は、「山梨勝之進」の解説の一部です。
「艦長としての操艦」を含む「山梨勝之進」の記事については、「山梨勝之進」の概要を参照ください。
- 艦長としての操艦のページへのリンク