消息について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/14 05:27 UTC 版)
1959年に日本中央競馬会が編纂・発行した『日本ダービー25年史』において、カイソウの消息は「競走馬引退後軍馬となり、名古屋師団に配され師団長の乗馬になったとの風聞あり」とされていた。その後、同会の広報誌『優駿』1963年1月号から5月号にかけて、丘雅男による小説「カイソウは何処にいる」が連載され、引退後の詳細がルポタージュ調で描かれた。小説ではあるがカイソウの関係者は実名で登場、証言をしており、以下参考として要旨を記述する。 最後のレースに出走した2日後、カイソウはセリ市に出され、名古屋師団に落札された(吉田三郎の証言)。当時の師団司令官は岡田資で、師団内では「司令官の乗馬は元競走馬で、とても速い馬だった」という話があった(当時師団に在籍していた男性の証言)。5月14日の名古屋大空襲で厩舎は焼けてしまい、暴れていた馬のうち数頭は裏門から街中へ飛び出していったが、それに構っていられる状況ではなかった(同前)。 「カイソウは何処にいる」では岡田の乗馬をカイソウと断定し、空襲時に街中へ駆け出して死亡あるいは行方不明になったと結論づけている。 なお、「カイソウは-」における吉田三郎の証言では、ダービーのあと京都に戻ったカイソウの管理調教師は、久保田金造ではなく鈴木甚吉だったという。さらに後年の『優駿』の記事中で、久保田金造はカイソウについて「大阪か名古屋で、将校の乗馬として使われていたことは分かった。おとなしい馬だから、将校に気に入られたんだと思う。ただ、なぜそこに行ったのか分からない」と述べている。また戦中に競馬会の職員だった吉崎公明は「カイソウがいったん種牡馬になって、種牡馬には適さなかったために廃用になり、将校の乗馬になったというなら筋も通っているけど、いやしくもダービー馬が、いきなり将校の乗馬になっていたというのは、ちょっと理解に苦しむ」と疑問を呈している。
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