消極的な晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 04:41 UTC 版)
「ヴィクトリア (イギリス女王)」の記事における「消極的な晩年」の解説
通常女王は退任する首相に推挙する後任の首相を下問するのが慣例だったが、グラッドストン第四期目の退任の際にヴィクトリアは彼に一切下問せずにお気に入りの外務大臣ローズベリー伯爵を独断で後任の首相に任じた。しかし自由党内や世論は大蔵大臣ウィリアム・バーノン・ハーコートを推す声が多かったので、この女王の独断には批判があった。 ローズベリー伯爵はエジプトと南アフリカに大きな利権を持つロスチャイルド家から妻を迎えており、自由党内の帝国主義者「自由帝国派」の議員であった。彼はただちにヴィクトリアに海軍増強を提案してヴィクトリアの帝国主義の矜持を満足させた。一方でローズベリーも自由党の政治家であり、貴族院批判を行ったり相続税値上げなどグラッドストンと似通った傾向も多々あり、ヴィクトリアもやや警戒していたが、結局ローズベリー伯爵は貴族院改革にもアイルランド自治にも熱を入れなかったのでヴィクトリアも安堵した。しかし世論ではハーコート人気が高まり、ローズベリー伯爵の権威は失墜していった。嫌になってきたローズベリー伯爵はつまらない法案の否決を理由にさっさと総辞職して保守党のソールズベリー侯爵に政権を譲ってしまった。ヴィクトリアとローズベリー伯爵は必ずしも意見は一致しなかったが、それでも彼女は政権交代を残念がっていた。 保守党のソールズベリー侯爵が自由統一党と連立して第三次内閣を組閣した。以降ヴィクトリアの崩御まで彼が首相を務めた。ソールズベリー侯爵は民主主義を進展させることを拒否し、貴族の特権を守るために全力を尽くす極めて保守的な人物だった。社会主義と帝国主義を結合させた「社会帝国主義者」として知られるジョゼフ・チェンバレンを植民相として積極的な帝国主義政策に乗り出した。ヴィクトリアはソールズベリー侯爵には安心して国政を任せることができ、彼女が政治に口を出すこともあまりなくなっていき、身の回りのことや趣味に集中することが増えた。またソールズベリー侯爵は以前からヴィクトリアに政治的影響力を「温存しておくよう」説得するのがうまかった。 加えてヴィクトリア朝末期、女王は高齢で体力が低下していき、政府に対する影響力を減少させ続けた。女王の旅行の際に女官の切符の手配が忘れられるという事態さえ発生した。1900年には三男コノート公アーサーをサー・ガーネット・ヴォルズリー(英語版)に代わる陸軍総司令官(英語版)に任命しようとしたが、ソールズベリー侯の推挙が優先されてロバーツ卿(英語版)がその任についた。さらに同年ソールズベリー侯は首相の職に専念するとして彼が兼務していた外務大臣職に陸軍大臣ランズダウン侯爵を就任させた。ランズダウン侯爵はかつて陸軍のスキャンダルを公表した人物だったのでヴィクトリアは嫌っていたが、この時も彼女の反対は何の効力も発揮せず、彼女にできたのは日記に不満を書くことだけだった。 1898年のイギリス王室四代。女王ヴィクトリア、皇太子バーティ(エドワード7世)、孫ヨーク公ジョージ(ジョージ5世)、曾孫エドワード王子(エドワード8世) 1897年、南フランスを旅行中のヴィクトリア女王を描いた絵
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