シルバーアロー伝説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 17:57 UTC 版)
「メルセデス・ベンツ・W25」の記事における「シルバーアロー伝説」の解説
元来、当時のグランプリは参加する車両の国籍が判断しやすいようにナショナルカラーという概念があり、ドイツ国籍の車両は白で塗装することと決められていた。よって、本来「白」である車体の色を「銀」にした経緯にはいくつかの諸説があるが、その諸説の中で最も有名なのがメルセデス・ベンツ・W25を由来とした説である。 1934年5月27日、3台のW25がアヴスレンネンの予選に登場したが、マシントラブルのため決勝には出場できず、デビュー戦は6月3日のアイフェルレンネン(ニュルブルクリンク)に持ち越された。その前日の車検で車重が規定の750kgを1kgオーバーしていることが判明したが、無駄を一切省いて設計されたため取り外せる部品がなかった。チーム監督アルフレート・ノイバウアーはマンフレート・フォン・ブラウヒッチュの「これではみんなが顔に泥を塗られてしまいますよ」という嘆きを聞いて「塗る」という言葉に閃き、窮余の策としてボディの塗装を剥がすよう指示。徹夜作業で白いナショナルカラーの塗装を削り落とし、辛くも再計量を通過すると、フォン・ブラウヒッチュのドライブにより見事デビューウィンを果たした(外部リンク参照)。 このマシンはアルミ地肌の銀色だったことから、以後、メルセデスのワークスマシンは銀色のボディカラーを基調とするようになり、ドイツ語で「銀の矢」を意味するジルバー・プファイル (de:Silberpfeil) 、英語ではシルバー・アロー (Silver arrow) と呼ばれるようになった。 ただし、この説は1958年に出版されたノイバウアーの伝記に基づくものであり、その伝記が登場するまで「シルバーアロー」という名前の由来も特に触れられなかった。また、1932年すでに「シルバーアロー」と呼ばれていたことをマンフレート・フォン・ブラウヒッチュ自身も認めている。[要出典]また1934年のアヴスレンネンにてメルセデスとアウトウニオン両方のチームがエントリーしたが、メルセデスは燃料系トラブルのため結局3台ともスタートできなかった。一方、アウトウニオンも「銀色の車体」でPワーゲンのタイプAを3台でエントリーし、内2台がリタイヤしたがアウグスト・モンベルガーが3位表彰台を獲得している。さらに、ノイバウアーの伝記ではアウトウニオンの車両に対して「銀の魚」を意味するジルバー・フィッシュ(独: Silber fisch、英: Silver fish) と呼んだが、現在では「どちらの車両もシルバーアローの起源」とするのが定説であり[要出典]ゴードン・ベネット・カップレースから続いていたドイツのナショナルカラーが変更された契機ともいえる。 また、アヴスレンネンにおけるレースの翌週となる6月3日に開催されたアイフェルレンネンにて車体重量が1kgオーバーしていたために塗料を落としたとの説であるが、このレースではすでに新ルールに準拠した車両の準備ができていたとして問題なくレースに参加しており、本当に車体重量に問題があったかは疑問が残る。そもそも同年のアイフェルレンネンは重量制限のないフォーミュラ・リブレで開催されており、車体重量が問題となること自体がありえない。また、アイフェルレンネンにおいてスペアタイヤを取り付けた状態で車体計量に臨む写真が見つかっている。750kgフォーミュラではスペアタイヤを取り外して計量することが認められていたため、重量オーバーしていたのならわざわざ一晩かけて塗料を落とさなくても、スペアタイヤを取り外すだけでその場で解決できてしまう。このため、この伝説は実話であるとは考えにくい。
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