ヨーロッパの対応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 07:38 UTC 版)
「近代から現代にかけての世界の一体化」の記事における「ヨーロッパの対応」の解説
詳細は「ブロック経済」を参照 世界恐慌に対して各国政府は、積極的な国際協力はおこなわず、自国本位の解決策を追求した。 アメリカとならんで、世界恐慌の影響がもっとも深刻だったドイツでも、工業生産は1929年からの3年間で半分近くに減少し、3人に1人が失業者というありさまになった。経済の混乱と社会不安のなかで、33年に成立したアドルフ・ヒトラー率いるナチ党政権は、軍需生産や土木工事を増大させ、フリッツ・トートを中心に進められたアウトバーンの建設などで大規模公共事業をおこして、失業者を吸収した。 イギリスもまた貿易不振と失業者の増大に苦しんだ。マクドナルド内閣は失業保険を削減しようとしたが、これには与党の労働党が反対してマクドナルドを除名した。そこで彼は、保守党や自由党の一部と挙国一致内閣(1931年 - 1935年)を組織し、金本位制の停止、国費の節約、保護関税などを実施した。さらに、1932年にはカナダのオタワでイギリス連邦経済会議(オタワ会議)をひらき、連邦内の貿易決済をUKポンドで行い、連邦内の商品は無税か低関税を、外国商品には高関税をかける帝国特恵制度の採用を決め、イギリスと各自治領が結束して関税障壁で自衛する、排他的なスターリングブロックが形成された。なお、1935年ネヴィル・チェンバレンの保守党政府が成立すると、ナチス・ドイツの反ソ的態度に期待して、ドイツの要求に譲歩する宥和政策をとった。 フランスでは、恐慌の影響が1932年になってあらわれ、政府はイギリス同様、植民地や友好国とフラン通貨圏(フランブロック)をきずいて、経済を安定させようとした。国内政局は不安定だったが、ドイツのヒトラー政権成立や国内の極右勢力の活動などにより危機感をもった中道・左翼勢力がまとまる傾向をみせた。1935年には仏ソ相互援助条約が結ばれ、翌36年には社会党・急進社会党に共産党が協力して、1936年、社会党のレオン・ブルム首相による「反ファシズム」の人民戦線内閣が成立し、大規模な公共事業を展開し、労働者の待遇改善を進めたが、政権の内部分裂もあり、経済危機をのりこえられないまま退陣した。 ドル・ポンド・フランなどの通貨を軸に経済圏をつくり、他国の商品を排除するブロック経済は、国際経済をますます縮小させ、弱体な中小諸国の経済を圧迫した。 一方、ソ連は資本主義世界との交流が少なく、世界恐慌の影響をうけずに社会主義の基礎をきずいたため、その計画経済は資本主義諸国からも注目された。しかし、スターリンは独裁的権力によって多数の人びとを根拠のない罪状をきせて粛清し、スターリンの個人崇拝を強めた。共産党の一党支配によるスターリン体制の確立である。対外的には、ソ連は国際社会への参加をすすめ、1934年には国際連盟に加盟した。
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