ヨーロッパの大学へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/06 03:05 UTC 版)
「ソフィア・コワレフスカヤ」の記事における「ヨーロッパの大学へ」の解説
1869年、コワレフスカヤはハイデルベルク大学へ出発するが、ここでも女性の入学は受け付けていないということを知らされる。何とか大学当局へ食い下がり、講師の許可を得た上で非公式の聴講生として受講する許しを得て、レオ・ケーニヒスベルガー(Leo Königsberger)の下で楕円関数を学ぶ。他にグスタフ・キルヒホフ、ヘルマン・フォン・ヘルムホルツらの物理学の講義も受け(受講はしていないがロベルト・ブンゼンとも知遇を得ている)、3学期間を優秀な成績で修了した。彼らはみな当時珍しかった女性数学研究者の才能に賛嘆している。直接指導に当たったケーニヒスベルガーは、自分の師であるカール・ワイエルシュトラスに対する尊敬の念をつねづね語っていたので、コワレフスカヤはワイエルシュトラスの下で学ぶ決意を固め、1871年にベルリン大学へ向かう。また、元々革命運動に共感していたコワレフスカヤは、この年にパリ・コミューン下のパリを訪れ、コミューンの負傷者の看護を行っている。のちには、姉アンナの夫で革命家のヴィクトル・ジャクラル(英語版)の監獄からの救出にも手を貸している。 ワイエルシュトラスははじめコワレフスカヤの弟子入りを断ろうと思い、テストを兼ねて難しい問題を出すが、彼女が難なく解いたのを見てその才能を知り、以後ワイエルシュトラスはコワレフスカヤが早すぎる死を迎えるまで、公私にわたる指導者・協力者となる。ワイエルシュトラスは彼女を自分の講義に迎え入れようとするが、しかしここでも女性であるがゆえに大学評議員会から拒否されたため、コワレフスカヤの家庭教師として、4年間にわたって個人的な薫陶を授ける。
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