チーム・カラツィオラ(1931年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 00:31 UTC 版)
「ルドルフ・カラツィオラ」の記事における「チーム・カラツィオラ(1931年)」の解説
1929年のアメリカ合衆国に端を発する世界恐慌は、1930年になるとヨーロッパにも大きな影響を及ぼすようになった。ドイツもまた大きな不況に見舞われ、ダイムラー・ベンツは1930年限りでレース活動を終了することを決定した。しかし、カラツィオラがイタリアチームに移ってしまうことを懸念したノイバウアーは同社取締役会議長のヴィルヘルム・キッセルを翻意させ、カラツィオラがプライベーターとして参戦するにあたり、賞金などはダイムラー・ベンツと折半することを条件に、小規模な支援を続けさせる約束を取り付けた。 こうして、チーム・カラツィオラが結成された。ドライバーのカラツィオラ、監督のノイバウアー、整備士3名、タイムキーパー役に妻のシャルリーがいるのみという、ごく小規模なチームだった。ノイバウアーの交渉により、車両は本来はワークスチームが使う予定で準備されていた貴重なSSKL(フランス語版)を格安で提供された。 小規模なチームながら、カラツィオラは5月のミッレミリア、7月のドイツグランプリ(英語版)(ニュルブルクリンク)、8月の第1回アヴスレンネンをはじめとしたレースで優勝を飾る。 ミッレミリアは長距離であることから本来はコ・ドライバーと交代で運転して走るレースなのだが、カラツィオラはほぼ全行程を一人で走り、コ・ドライバーのヴィルヘルム・セバスチャンはステアリングの保持が必要な時の補助に徹した。カラツィオラとセバスチャンは、このレースで「外国人」が優勝した最初の例となった。 この年は体制に不利があったにもかかわらず、結果として、年間で11勝を挙げ、獲得した賞金を約束通りダイムラー・ベンツと分かち合うことで協力の恩に報いた。
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チーム・カラツィオラ
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「ヴィルヘルム・セバスチャン」の記事における「チーム・カラツィオラ」の解説
1931年、ルドルフ・カラツィオラのライディングメカニック(コ・ドライバー)として、イタリアのミッレミリアに出場する。カラツィオラは前年までダイムラー・ベンツのワークスドライバーだったが、経営不振に陥った同社はワークス活動を休止してしまったため、カラツィオラはプライベーターとしてこのレースに参戦した、このレースは長距離レースであることから、セバスチャンがコ・ドライバーになったという経緯である。このレースでセバスチャンはメルセデス・ベンツ・SSKLのステアリングホイールを支えるなどしてカラツィオラの運転をサポートして、カラツィオラとともに外国人としては初めてミッレミリアの優勝者として名を刻んだ。
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チーム・カラツィオラ(1931年)
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「モータースポーツにおけるメルセデス・ベンツ」の記事における「チーム・カラツィオラ(1931年)」の解説
1929年に始まった世界恐慌による経済不況から、ダイムラー・ベンツはレース活動を中止することを決定して、1930年をもってカラツィオラらワークスドライバーたちとの契約を終了した。しかし、カラツィオラがイタリアチームに流出してしまうことを恐れたノイバウアーはダイムラー・ベンツの取締役会議長であるヴィルヘルム・キッセルに掛け合って譲歩を引き出し、賞金を折半することなどを条件に、カラツィオラへの支援を続けさせるとともに、ワークスチーム向けに製造された希少なSSKLを格安で提供させ、彼を中心としたプライベートチームを設立した。 このチームはカラツィオラと、必要に応じて助っ人コ・ドライバー(ライディングメカニック)として参加したヴィルヘルム・セバスチャンの他は、監督のノイバウア―と3名ほどの整備士がいるだけのごく小規模なチームだった。しかし、5月のミッレミリア、7月のドイツグランプリ(英語版)(ニュルブルクリンク)、8月の第1回アヴスレンネン(フランス語版)をはじめとしたレースで優勝を飾り、気を吐くこととなる。この年のレースの中でも、圧倒的多数であるイタリアの地元チームを破って得たミッレミリア(イタリア語版)の勝利は、外国車と外国人が初めてイタリア勢を破って優勝を飾ったことから記録として意義が大きいことに加え、少ない人数ながら効率的にチーム運用をして得た勝利であり、特筆されることが多い。
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