難波清人とは? わかりやすく解説

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難波清人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/31 14:48 UTC 版)

難波清人

難波 清人(なんば きよと、1888年明治21年)8月28日[1][注釈 1] - 1940年昭和15年)10月11日)は、日本の政治家、新聞記者。

経歴

岡山県上道郡平井村(現・岡山市)出身[2]。中学時代は柔道で鍛えていて喧嘩っ早く、岡山中学校関西中学校金川中学校を喧嘩で退校処分となり、最終的には京都の中学校に進んだ[1]。1913年、明治大学法律科卒業。中外商業新報(現日本経済新聞)経済市場部長、金川中学校理事長などを経て、1926年の土居通憲辞職に伴う補欠選挙犬養毅の支援を受けて衆院議員に当選[3]昭和会立憲政友会に所属。

1927年(昭和2年)、清瀬一郎を殴打するなど議会乱闘事件に関与したとして公務執行妨害、傷害の容疑で起訴。同年12月16日に懲役三か月、執行猶予1年の判決を受ける[4]

1928年の衆院選は落選するが、1930年の衆院選1932年の衆院選には当選[3]。犬養毅の「懐刀」「秘蔵っ子」と呼ばれ、五・一五事件の当日には事件の30分前まで犬養と話し込んでいた[3]。この時、難波は犬養から夕飯を勧められたが、親交のあった坂井大輔の初七日に行かなければならなかったため犬養のもとを退去した[5]1936年の衆院選で落選後、鉄道疑獄事件において収賄罪で起訴されるが無罪判決となる[6]

脚注

注釈

  1. ^ 『衆議院議員略歴 第1回乃至第19回』p.219では1890年(明治23年)8月生まれ。

出典

  1. ^ a b 『昭和の岡山・政治と人と 上 (戦前・戦中編)』p.88。
  2. ^ 『衆議院議員略歴 第1回乃至第19回』p.219
  3. ^ a b c 『昭和の岡山・政治と人と 上 (戦前・戦中編)』p.89。
  4. ^ 暴行十代議士に有罪判決『東京日日新聞』昭和2年12月17日夕刊(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p240 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  5. ^ 『昭和の岡山・政治と人と 上 (戦前・戦中編)』p.9。
  6. ^ 『昭和の岡山・政治と人と 上 (戦前・戦中編)』p.90。

参考文献

  • 『衆議院議員略歴 第1回乃至第19回』衆議院事務局、1936年。
  • 『昭和の岡山・政治と人と 上 (戦前・戦中編)』山陽新聞社、1979年。
  • 『政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。 



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