敗戦と民政移管から経済崩壊まで(1982年-2003年)
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「アルゼンチンの歴史」の記事における「敗戦と民政移管から経済崩壊まで(1982年-2003年)」の解説
三国同盟戦争以来の本格的な戦争であり、建国以来初の敗戦となったマルビナス戦争はアルゼンチン人の意識に大きな影響を与えた。特に、多くのアルゼンチン人のルーツであり、アルゼンチン人がアイデンティティを求めたヨーロッパ諸国 (EC) がこぞってイギリスを支援し、逆に第三世界、特にラテンアメリカ諸国がアルゼンチンの立場を支持したことは、「南米のヨーロッパ」を自認し、ヨーロッパにアイデンティティを置いていたアルゼンチン人に大きな心理的影響を与えた。また、多大な犠牲者を出した敗戦により建国以来かつてない程に反軍感情が高まることになったのも大きな特徴だった。 1982年6月17日にガルティエリは失脚し、後を継いだレイナルド・ビニョーネは1984年3月の民政移管を公約するが、それでも国民感情の爆発は抑え難く、1983年10月30日に民政移管選挙は前倒しされ、12月に急進党から当選したラウル・アルフォンシンが大統領に就任した。 アルフォンシン政権は軍政の負の遺産とでもいうべき莫大な対外債務やハイパー・インフレ、さらには軍政時代に人権侵害を行った軍人の処遇やチリとの領土問題、マルビナス戦争による国際的孤立など複雑な問題への対処を迫られた。1984年11月にはそれまで何度も一触即発の危機に陥っていたチリのアウグスト・ピノチェト政権と、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の仲介により平和条約を結び、ビーグル水道のピクトン島・レノックス島・ヌエバ島のチリ領有を認める大幅な譲歩を行うことで、平和路線を国外に印象付けた。さらにこのような平和路線を続け、ブラジルが1985年3月に民政移管すると、11月にジョゼ・サルネイ大統領と首脳会談を行い、翌1986年7月にはアルゼンチン・ブラジル統合議定書に調印して両国の長年に渡る敵対関係に終止符が打たれた。1985年5月にはアウストラル計画を実行し、インフレ抑制に務めようとし、一定の成果を挙げた。同年12月にはビデラ将軍を初めとする軍人5名に有罪判決が下り、ラテンアメリカ史上初の文民による軍人への裁きが実現したが、このことは軍内の反発を呼び、未遂に終わったものの1987年4月と、1988年の1月と11月の3度に渡り軍部の反乱が起きることになった。しかし、全体としてアルフォンシンは軍部を文民の統制下に置き、大規模な軍縮を実現した。1986年にメキシコで開催されたワールドカップではディエゴ・マラドーナの特筆されるべき活躍により、アルゼンチンは2度目の優勝を果たし、軍事政権の負の遺産に苦しむ国民に大きな希望を与えた。順調かと思われたアウストラル計画は徐々に無理が露呈し、1989年になると、再びインフレが加速した。こうした事態に対処できなかったアルフォンシンは任期を5ヶ月残しての異例の退陣を行った。 1989年5月に労働者の支持を得て正義党から当選したカルロス・メネムは、選挙公約とは打って変わってそれまでのペロン主義とは180度異なる新自由主義を導入した。1989年に国家再建法、経済緊急法を制定して電話、航空、電力、石油、水道、ガス、鉄道、鉄鋼、年金などの各種部門を次々と民営化していった。1991年に経済相に就任したドミンゴ・カバーロが1ペソ=1ドル兌換法を導入すると、ハイパーインフレは収束した。これにより国民の支持を得たメネム政権は1994年に憲法を改正し、大統領の任期を6年から4年に短縮する代わりに一度に限って再選を認める制度を構築した。外交面では国際協調と親米政策を基盤とし、1991年の湾岸戦争にも南アメリカ諸国で唯一多国籍軍に軍を派遣した。また、1991年3月にアスンシオン議定書に調印し、ブラジル、ウルグアイ、パラグアイと共にメルコスールを設立することが宣言された。メルコスールは1995年に正式に発足した。1995年にメネムは再選したが、このような政策により任期の後半には赤字と対外債務が増大していった。また、民営化政策の恩恵に与れなかった多くの中間層がこの時期に没落していった。1999年の選挙でメネムは強引な憲法解釈により再び出馬を狙うが、ラ・リオハ銀行倒産の責任を取って出馬を断念し、1999年12月に4年の任期を全うして退陣した。 1999年12月に急進党からフェルナンド・デ・ラ・ルア大統領が就任した。しかし、経済の状況は予断を許さない程に悪化していた。2000年にはドミンゴ・カバーロが再び経済相に就任するが、もはや兌換法に効果はなく、2001年には中産階級の生活にまで影響を及ぼすことになると商店への略奪などが各地で発生し、治安が極端に悪化したため戒厳令が敷かれた。同年五月広場で起きたデモ隊と警官隊の衝突により12月21日にデ・ラ・ルアは失脚した。 デ・ラ・ルア失脚の直後ロドリゲス・サアが臨時大統領に就任し、デフォールト(債務不履行)を宣言するが、サアは八日間で失脚し、2002年1月に正義党のエドゥアルド・ドゥアルデが2003年12月までを任期に暫定大統領に就任した。ドゥアルデは固定相場制を廃止し、現金の流通そのものを規制したが、失業者は増大し、各地で道路の封鎖やデモが相次ぎ、不法にゴミを回収するカルトネーロスが街中に現れるようになった。このような状況にもはや対処できなくなったドゥアルデは2003年4月27日に選挙を繰り上げた。この選挙でカルロス・メネムが決選投票を辞退したため、正義党からネストル・キルチネルが当選し、5月25日に大統領に就任した。
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