敗戦と民政移管から経済崩壊までとは? わかりやすく解説

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敗戦と民政移管から経済崩壊まで(1982年-2003年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/13 19:22 UTC 版)

アルゼンチンの歴史」の記事における「敗戦と民政移管から経済崩壊まで(1982年-2003年)」の解説

三国同盟戦争以来本格的な戦争であり、建国以来初の敗戦となったマルビナス戦争アルゼンチン人意識大きな影響与えた。特に、多くアルゼンチン人ルーツであり、アルゼンチン人アイデンティティ求めたヨーロッパ諸国 (EC) がこぞってイギリス支援し逆に第三世界、特にラテンアメリカ諸国アルゼンチン立場支持したことは、「南米ヨーロッパ」を自認しヨーロッパアイデンティティ置いていたアルゼンチン人大きな心理的影響与えたまた、多大な犠牲者出した敗戦により建国以来かつてない程に反軍感情が高まることになったのも大きな特徴だった。 1982年6月17日にガルティエリは失脚し、後を継いだレイナルド・ビニョーネ1984年3月民政移管公約するが、それでも国民感情爆発抑え難く1983年10月30日民政移管選挙前倒しされ、12月急進党から当選したラウル・アルフォンシン大統領就任した。 アルフォンシン政権軍政負の遺産とでもいうべき莫大な対外債務ハイパー・インフレさらには軍政時代人権侵害行った軍人処遇チリとの領土問題マルビナス戦争による国際的孤立など複雑な問題への対処迫られた。1984年11月にはそれまで何度も一触即発危機に陥っていたチリアウグスト・ピノチェト政権と、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世仲介により平和条約を結び、ビーグル水道ピクトン島・レノックス島・ヌエバ島チリ領有認め大幅な譲歩を行うことで、平和路線国外印象付けた。さらにこのような平和路線続けブラジル1985年3月民政移管すると、11月ジョゼ・サルネイ大統領首脳会談行い、翌1986年7月にはアルゼンチン・ブラジル統合議定書調印して両国長年に渡る敵対関係終止符打たれた。1985年5月にはアウストラル計画実行しインフレ抑制務めようとし、一定の成果挙げた同年12月にはビデラ将軍初めとする軍人5名に有罪判決下りラテンアメリカ史上初の文民による軍人への裁き実現したが、このことは軍内の反発呼び未遂終わったものの1987年4月と、1988年1月11月3度渡り軍部反乱起きることになった。しかし、全体としてアルフォンシンは軍部文民統制下に置き、大規模な軍縮実現した1986年メキシコ開催されワールドカップではディエゴ・マラドーナ特筆されるべき活躍により、アルゼンチン2度目優勝果たし軍事政権負の遺産苦し国民大きな希望与えた。順調かと思われアウストラル計画徐々に無理が露呈し1989年になると、再びインフレ加速したこうした事態対処できなかったアルフォンシンは任期を5ヶ月残して異例退陣行った1989年5月労働者支持得て正義党から当選したカルロス・メネムは、選挙公約とは打って変わってそれまでペロン主義とは180度異な新自由主義導入した1989年国家再建法経済緊急法を制定し電話航空電力石油水道ガス鉄道鉄鋼年金などの各種部門次々と民営化ていった1991年経済相就任したドミンゴ・カバーロが1ペソ1ドル兌換法を導入すると、ハイパーインフレ収束した。これにより国民の支持得たメネム政権1994年憲法改正し大統領の任期6年から4年短縮する代わりに一度限って再選認め制度構築した外交面では国際協調親米政策基盤とし、1991年湾岸戦争にも南アメリカ諸国唯一多国籍軍に軍を派遣したまた、1991年3月アスンシオン議定書調印しブラジルウルグアイパラグアイと共にメルコスール設立することが宣言された。メルコスール1995年正式に発足した1995年メネム再選したが、このような政策により任期後半には赤字対外債務増大していった。また、民営化政策恩恵に与れなかった多く中間層がこの時期没落していった。1999年選挙メネム強引な憲法解釈により再び出馬を狙うが、ラ・リオハ銀行倒産責任取って出馬断念し1999年12月4年任期全うして退陣した。 1999年12月急進党からフェルナンド・デ・ラ・ルア大統領就任した。しかし、経済状況予断を許さない程に悪化していた。2000年にはドミンゴ・カバーロが再び経済相就任するが、もはや兌換法に効果はなく、2001年には中産階級の生活にまで影響を及ぼすことになると商店への略奪などが各地発生し治安極端に悪化したため戒厳令敷かれた。同年五月広場起きたデモ隊警官隊衝突により12月21日にデ・ラ・ルアは失脚した。 デ・ラ・ルア失脚直後ロドリゲス・サアが臨時大統領就任しデフォールト債務不履行)を宣言するが、サア八日間失脚し2002年1月正義党のエドゥアルド・ドゥアルデが2003年12月までを任期暫定大統領就任した。ドゥアルデは固定相場制廃止し現金流通そのもの規制したが、失業者増大し各地道路封鎖デモが相次ぎ不法にゴミ回収するカルトネーロスが街中現れるようになったこのような状況にもはや対処できなくなったドゥアルデは2003年4月27日選挙繰り上げた。この選挙カルロス・メネム決選投票辞退したため、正義党からネストル・キルチネル当選し5月25日大統領就任した

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