ウイグル・唐・吐蕃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 19:33 UTC 版)
789年、吐蕃軍がウイグルに服属していた白服突厥とカルルクを引き込んで北庭大都護府を襲撃、現地のウイグル・唐軍は敗北した。ウイグル軍はモンゴリアまで撤退し、ウイグル側にいた沙陀部も吐蕃に降った。 この北庭争奪戦は792年まで続くが、最終的にウイグル軍は北庭を奪還し吐蕃に勝利した。トルファン盆地とタリム盆地北部がウイグルの領国となった。なお懐信可汗(在位:795年 - 805年)の代にマニ教が国教化され、世界史上唯一となるマニ教国家が誕生した。 その後も吐蕃との戦争は続くが、821年にウイグル・吐蕃・唐の間に三国会盟が締結された。この長慶会盟は従来、吐蕃と唐との停戦協定とされていたが、近年、森安孝夫が敦煌文書の断片ペリオ3,829番に「盟誓得使三国和好」という文言を発見した他、中国の李正宇もサンクトペテルブルクで敦煌文書断片Dx.1462に同内容の文言を発見したため、ウイグル・吐蕃・唐の三国間協定であったとされる。当時のウイグル・唐・吐蕃の国境は、清水県の秦州や天水と、原州をむすぶ南北の線が、唐と吐蕃の国境線で、東西に走るゴビ砂漠が、ウイグルと吐蕃の国境であった。 なお、ゴビ=アルタイ東南部のセブレイにあるセブレイ碑文が現存しているが、この碑はウイグル側が三国会盟を記念して建立したとされる。
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