三国同盟の成立と破綻
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後北条氏と駿河の今川氏はもともと後北条氏の始祖である伊勢盛時(北条早雲)の姉北川殿が今川義忠の正室であり、義忠と北川殿の子今川氏親を盛時が家臣として補佐していたことから同盟関係(駿相同盟)にあった。しかし、天文6年(1537年)に氏親の子今川義元が北条氏と敵対関係にあった甲斐の武田氏と駿甲同盟を結んだことから敵対関係に入り、富士川以東をめぐる争奪戦が約10年にわたり繰り広げられていた(河東の乱)。 武田・北条・今川氏の間で甲相駿三国同盟が結ばれると、早川殿はその婚姻政策の一環として天文23年(1554年)7月に今川義元の嫡子氏真(17歳)の許に嫁いだ。 行列の行程や婚儀の具体的な様子についての史料は残されていないが、甲斐で記された『勝山記(妙法寺記)』には、輿入の行列の見事さが伝聞として記されている。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}駿河の屋形様へ相州屋形様の御息女を迎い御申し候、御供の人数の煌めき、色々の持ち道具、我々の器用ほど成され候、去るほどに見物、先代未聞に御座有る間敷く候、承け取り渡しは三島にて御座候、日の照り申し候事は言説に及ばず、余りの不思議さに書き付け申し候 —『勝山記』 北条家から供奉した家臣は、きらめくような武具(持ち道具)で婚姻行列を飾り、沿道は見物人で前代未聞というほどの賑わいを見せたという。花嫁の受け渡しは、境目である三島で行われた。この日はことのほか天気が良かったという。 伊豆と駿河の国境を流れる境川に架けられた農業用水の千貫樋は、北条氏康からの聟引出物として建設されたという伝承がある。 永禄10年(1567年)前後、長女(吉良義定室)を儲けた。 永禄11年(1568年)11月11日付で、同年3月に没した寿桂尼の所領であった笹間郷上河内村の峯叟院(島田市)に寺領安堵の朱印状を発行しており、寿桂尼の所領の少なくとも一部を継承している。 永禄11年(1568年)12月、甲斐国の武田信玄が駿河侵攻を行うと、氏真とともに遠江国掛川城へ逃れた。この逃避行の際、武田氏は早川殿の保護を怠ったために、早川殿が徒歩で逃げる羽目になった。このことに父の北条氏康は激怒し、武田との同盟を破棄して長年の宿敵だった上杉謙信との同盟に切り替え(越相同盟)、今川氏を支援するために駿河に出兵した。 翌年5月、今川・北条家と徳川家の間に和睦が成立し、掛川城は開城。氏真・早川殿と長女は、在城衆とともににより北条家に迎えられ、おそらく海路で蒲原城に引き取られた。今川家臣は北条家の軍事指揮下に置かれ、駿河支配は北条氏政に委任されることになり、早川殿の甥の国王丸(のちの北条氏直)が氏真の養子として今川家の名跡が譲渡された。 氏真・早川殿夫妻は沼津に移った後、伊豆国境に位置する駿東郡東南端の大平郷(今川家御料所であった)に移り、大平城を築いて拠点とした。早川殿は元亀元年(1570年)4月には小田原近郊の早川郷へ移った。「早川殿」の称はここから来ている。氏真は大平城にとどまっていたが、大平城も攻撃にさらされる戦況となり、8月までに同城を退去し、妻のいる早川郷に移住した。この元亀元年(1570年)、早川殿は長男今川範以を生む。氏真が33歳で得た嫡男である。 元亀2年(1571年)10月、父氏康が死去した。甲相同盟が復活し、北条家が駿河を武田領国と承認することで、氏真の駿河帰国は頓挫することになった。最終的に氏真夫妻は小田原を出て浜松の徳川家康を頼ることになるが、出国の時期は明らかになっていない。従来、甲相同盟を受けて間もなく小田原を退去したとされてきたが、史料で確認される限り、氏真はその後も早川に暮らしており、元亀3年(1572年)5月には早川の久翁寺で今川義元の十三回忌法要を行っている。
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