今川範以とは? わかりやすく解説

今川範以


今川範以

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/22 02:25 UTC 版)

 
今川範以
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 元亀元年(1570年[注釈 1]
死没 慶長12年11月27日1608年1月14日
別名 五郎、左馬助(通称)
戒名 徳報院殿秀山長秀大居士[注釈 2]
氏族 清和源氏足利氏今川氏
父母 父:今川氏真
母:早川殿
兄弟 範以品川高久西尾安信澄存吉良義定
正室:利正院殿吉良義安の娘)
直房、西尾以庸、娘(大友義親室)、娘(吉良義弥室)
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今川 範以(いまがわ のりもち)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武士今川氏真の嫡男で、今川義元の孫にあたる。母は早川殿北条氏康の娘)。

生涯

享年から逆算すると、元亀元年(1570年)誕生。父氏真は駿河国から追われ、早川殿の実家である北条氏に身を寄せている時期であり、範以も小田原で生まれたことになる。このとき氏真は北条氏康の孫の国王丸(のちの北条氏直)を猶子として迎えており、国王丸成長後は駿河の統治権を譲ることが決められていた。

範以が生まれた2年後の元亀3年(1572年)5月には小田原郊外の久翁寺にて氏真夫妻主催で祖父・今川義元の13回忌が開催され、その後両親とともに小田原から退去し、徳川家康の庇護下に入ることになる[1]。また、この法要には形式的に今川氏当主の座を譲られたとみられている国王丸が関与している形跡は無く、範以誕生後に国王丸が正式に北条氏の後継者に決まったことにより氏真との縁組が解消され、範以が今川氏の後継者と定められたと考えられている[2]

範以は生涯を父氏真の傍らで送り、仕官することはなかった。山科言経の日記『言経卿記』の記述から氏真は天正19年(1591年)以後京都で暮らしていたことが確認できるが、範以も文禄3年(1594年)9月より『言経卿記』に登場している。

範以は、父とともに冷泉家山科家など駿河以来今川氏と縁の深い公家衆と交わり、冷泉為満邸で開かれる連歌会・月次和歌会の常連であった。とくに山科言緒(阿茶丸、言経の息子)や冷泉為将(下冷泉家、藤原惺窩の弟)とは親しく、言緒とともに建仁寺両足院へ三体詩の聴講に出かけたり、互いの家を訪問したりしている記述もあらわれる。学問と和歌を好む人物だったことがその記述から窺われる。

慶長9年(1604年)4月15日の冷泉為満邸和歌会では講師(こうじ)を務めたが、これを最後に『言経卿記』に範以に関する記載はない。体調を崩したとみられるが、あるいはもともと病弱であったのかもしれない[3]

慶長12年(1607年)、京都において父に先立ち病没。享年38。葬地は不明。弟の澄存高野山高室院に範以を供養するための碑を建てている。また、今川氏菩提寺の万昌院(現在の萬昌院功運寺)に石塔婆が建てられている。

嫡男の範英(のち直房)は氏真に養育され、のちに江戸幕府高家として取り立てられた。

系譜

父母
兄弟姉妹
姉が嫁いだ義定の姉妹にあたる。範以の死後、権大納言大炊御門経頼に再嫁し、経孝を産んだ[注釈 3]。没後は今川・吉良家に縁のある江戸の万昌院に葬られ、直房によって今川家菩提寺の観泉寺に改葬されている。法名:利正院殿紅巌慈峰大姉。
子女

寛政重修諸家譜』によると、2男3女がある。

  • 長女:(不詳)
  • 長男:今川直房
  • 二男:西尾以庸(慶長10年(1605年)-寛永15年(1638年)12月25日)
蔵人。寛永7年に家光にはじめて拝謁。旗本として幕府に仕え500石を知行した。寛永10年(1633年)8月3日に行われた諸番士馬揃の際に落馬したことが『徳川実紀』に記されている(なお、この時には使番小幡景憲、書院番士柴田勝興も落馬が記録されている)。享年33。
  • 二女:後観泉寺殿(大友義親室、生年不詳-万治元年(1658年)閏12月3日)
元和5年(1619年)、夫と死別。子はなく、大友氏は一旦断絶した。彼女は今川家に戻って出家して宝珠山観泉寺(当時は「観音寺」)に仕え、のちに直房とともに寺を中興して実質的な開基となった。『寛政重修諸家譜』では直房の妹とするが、観泉寺の寺伝等では直房の姉とされる。法名:観泉寺殿簾室慶公大姉。
  • 三女:娘(吉良義弥室、生年不詳-万治2年(1659年)6月4日)
義弥は義定の子。範以三女と吉良義弥は、父母両系でいとこに当たる。

脚注

注釈

  1. ^ 没年齢からの逆算。
  2. ^ 『戦国人名辞典』によれば「徳法院殿山長秀大居士」
  3. ^ 『吉良系図』による。『諸家伝』には大炊御門経孝の母は「源義康女」とあるが、これは「義安」の誤りと推定される。

出典

  1. ^ 長谷川正一 著「天正元年以降における今川氏真の政治的地位」、戦国史研究会 編『論集 戦国大名今川氏』岩田書院、2020年、261-262頁。ISBN 978-4-86602-098-3 
  2. ^ 黒田基樹「総論 北条氏直の研究」『北条氏直』戒光祥出版〈中世関東武士の研究 第二九巻〉、2020年、12頁。ISBN 978-4-86403-349-7 
  3. ^ 観泉寺史編纂刊行委員会 1974, p. 676, 井上宗雄「今川氏とその学芸」.

参考文献

  • 観泉寺史編纂刊行委員会 編『今川氏と観泉寺』吉川弘文館、1974年。 
  • 寛政重修諸家譜』巻第九十四
  • 大嶌聖子 著「今川範以」、戦国人名辞典編纂委員会 編『戦国人名辞典』吉川弘文館、2006年。 



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