アンティオキア公国摂政
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 08:36 UTC 版)
「タンクレード (ガリラヤ公)」の記事における「アンティオキア公国摂政」の解説
1100年、アンティオキア公の地位に納まっていたボエモン(ボエモン1世)は、北方への遠征の際、メリテネ(現在のトルコ南東部マラティヤ)でテュルク系国家ダニシュメンド朝とのメリテネの戦いに敗れ捕虜となった。ボエモン1世の甥であるタンクレードはアンティオキアに赴き、アンティオキア公国の摂政として留守を守ることになる。 タンクレードはセルジューク朝系の政権や東ローマ帝国からキリキアやアレッポなどの領土を奪い、アンティオキア公国の領土を拡大させた。東ローマ帝国皇帝アレクシオス1世は、アンティオキア公国のこれ以上の拡大を防いでタンクレードを自分の管理下に置くべく、アンティオキアの北ではダニシュメンド朝と結び、アンティオキアの南では十字軍国家のトリポリ伯国の成立を助けるなど、10年以上にわたり圧迫を行った。しかし結局タンクレードはその後も東ローマ帝国に従うことはなかった。1103年にボエモン1世が釈放されるとタンクレードは実権を失う。 1104年、十字軍国家エデッサ伯国のボードゥアン2世およびアンティオキア公国のボエモン1世は共同でユーフラテス川の東方へ遠征するが、ハッラーンの戦いでモースルなどのセルジューク朝系政権に大敗した。これを機会と見たアレクシオス1世はアンティオキア公国に攻撃を行い、地中海側のラタキア港を回復し、アルメニア人らの助力も得てキリキアを取り戻した。東ではアレッポのシリア・セルジューク朝系の君主リドワーンが勢力を回復し、シリア内陸部をアンティオキア公国から奪還していった。 四方から圧迫される状況に失望したボエモン1世は助けを求めるために南イタリアに帰ってしまい、タンクレードは再び摂政となった。またエデッサ伯のボードゥアン2世がハッラーンの戦いで捕虜となったため、タンクレードはエデッサ伯国の摂政も兼任することになった。1105年にはアレッポのリドワーンと戦い、オロンテス川以東の領土をアレッポから奪い返した 。ボードゥアン2世は1107年に釈放され、タンクレードはエデッサ伯国の実権を取り戻そうとするボードゥアン2世との争いに敗れてアンティオキアに戻った。タンクレードはラタキアを再び奪い、アンティオキア公国をシリア随一の強国とした。 やがて、フランク人(十字軍国家の西洋人)とムスリムは共通の敵に対して、時と場合に応じて手を結ぶようになる。1108年、ムンキズ家が支配するシリア中部のシャイザル城での戦いでは、タンクレードは贈物の馬を得て、兵を引き揚げている。シャイザル側の使者であった詩人ウサマ・イブン・ムンキズ Usamah ibn Munqidh)の記録では、馬を連れてきたクルド人の若者の美貌をたたえ、後に彼を捕虜にしたとしても必ず釈放しようと約束する。しかしこのアンティオキア摂政は約束をたがえ、後に彼を捕虜とした際には閉じ込めて拷問し右目をくりぬいたという。シャイザルはアンティオキア公国とトリポリ伯国の中間にあたり、タンクレードはたびたびこの城を囲んだ。1111年にはバグダードのセルジューク朝本家がシリアへ遠征軍を送った。途中シャイザルからの救援要請でセルジューク軍はアレッポからシャイザルに向かったが、タンクレードもエルサレム王国やトリポリ伯国、エデッサ伯国に支援を要請し、シャイザルで戦った。戦いは両者引き分けに終わり、補給を断たれた十字軍国家側は撤退し、セルジューク朝側も一つも町を取り戻さないままバグダードへ退却した。タンクレードはシャイザールの近くに城を建て、監視を行わせた。 1108年、アレクシオス1世とボエモン1世は、マケドニアのデヴォル川沿いにあったデヴォル(デアボリス、Deabolis/Devol、現アルバニア領)の町でデヴォル条約を結んだ。ヨーロッパで援軍を探していたボエモン1世は、東ローマ帝国の強大さを前についに抵抗をやめることを決意し、デヴォル条約でアレクシオス1世に臣従することを誓い、アンティオキア公国は東ローマ帝国の封臣国家であると約束した。しかしアンティオキアに残っていたタンクレードはこの条約を拒んだ。この後数十年、アンティオキア公国は東ローマ帝国からの独立を保ち続けることになる。1110年、タンクレードはホムス西方の峠を抑える要衝であるクラック・デ・シュヴァリエを占領した。この城は後にトリポリ伯国の、さらに聖ヨハネ騎士団の重要拠点となる。 1111年、ボエモン1世がプーリアで没しカノーザ・ディ・プーリアに葬られると、タンクレードはプーリアにいるボエモン1世の遺児ボエモン2世を立てて摂政を続けた。タンクレードは1112年に腸チフスの流行で没した。タンクレードは、フランス王フィリップ1世とベルトラード・ド・モンフォールとの間の娘セシールと結婚しているが、子供はいなかった。アンティオキアの摂政は、甥にあたる、姉妹アルトルーデとリッカルド・ディ・サレルノ(プリンチパート伯グリエルモの子)の子のサレルノ伯ルッジェーロが継いだ。 『ゲスタ・タンクレーディ』(Gesta Tancredi)は年代記作家・カンのラウル(Raoul de Caen / Ralph of Caen)がラテン語で書いた伝記である。ラウルはノルマン人で、十字軍に参加しボエモン1世およびタンクレードの下に仕えた。
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