アンティオキアの包囲とアレクサンドレッタの戦い
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「アレクサンドレッタの戦い」の記事における「アンティオキアの包囲とアレクサンドレッタの戦い」の解説
アレッポ キンナスリーン ダマスクス バールベック ホムス シドン タラーブルス ハマー アンティオキア ティベリアス湖 アレクサンドレッタ ラムラ エルサレム アルカ シャイザール タルソス 死海 ガザ ファラマ 戦闘が行われた時期のシリアの各都市の位置を表した地図(境界線は現代の国境) ジャアファルはダマスクスを占領するとすぐに公約に掲げていたビザンツ帝国に対するジハードを実行に移し、自身のギルマーン(奴隷兵の集団)の一人であるフトゥフ(「勝利」の意)に指揮を委ねた。なお、15世紀のイエメンの歴史家のイドリース・イマードゥッディーン(英語版)は、著作の『ウユーン・アル=アフバール』の中で、指揮官としてアフー・ムスリム(英語版)の名を挙げている。フトゥフはベルベル人のクターマ族による大軍を編成し、パレスチナとシリア南部における徴兵で軍を強化すると、970年12月にアンティオキアの包囲を開始した。ビザンツ帝国の歴史家のゲオルギオス・ケドレノス(英語版)は、ファーティマ朝軍の規模は100,000人であったと明らかに誇張された数字を残しているが、イドリース・イマードゥッディーンは20,000人と記録している。 ファーティマ朝の軍隊は都市を包囲したものの、アンティオキアの住民は激しい抵抗を示した。14世紀の歴史家のアブー・バクル・ブン・アッ=ダワーダーリーは、恐らくジャアファルはシリア南部で徴兵された部隊を「次から次へと」援軍として送らざるを得なかったと説明している。15世紀のエジプトの歴史家のアル=マクリーズィーは、この説明の続きとして、ジャアファルが4,000人の兵士を充てたこれらの追加の部隊によって都市に向かう隊商を阻止し、都市の補給を完全に遮断することが可能になったと記している。 その一方で、ニケフォロス2世フォカスの殺害者でその後継者であるヨハネス1世ツィミスケス(在位:969年 - 976年)は、より脅威であったルーシのスヴャトスラフ1世(在位:945年 - 972年)によるバルカン半島への侵攻が発生していたために、自ら東部へ軍事介入に向かうことができなかった。このため、ヨハネス1世は都市を支援するために家中で信頼を置いていた宦官、同時代の聖職者で歴史家のレオン・ディアコノス(英語版)によれば、戦闘経験を持つパトリキオスであるニコラスが指揮する小規模な軍隊を派遣した。 その間にアンティオキアに対する包囲は成果もないまま冬から春にかけて5か月間続いていた。包囲中のある時点でファーティマ朝の分遣隊 — アブー・バクル・ブン・アッ=ダワーダーリーによれば、アラスという名のベルベル人の族長とタルソスの以前のアミールであるイブン・アッ=ザイヤート(英語版)が率いる4,000人の部隊 — が、ビザンツ軍の救援部隊が野営していたアレクサンドレッタに向けて北へ移動した。ファーティマ朝の部隊の接近を知ったニコラスは野営地から部隊を退去させて伏兵を置いた。敵の野営地が放棄されているのを発見したファーティマ朝の部隊は何の注意も払わずに略奪を始めた。その瞬間にニコラスがあらゆる方角から奇襲攻撃を仕掛け、ファーティマ朝の部隊は壊滅した。イスラーム教徒の部隊のほとんどの者が殺害されたが、アラスとイブン・アッ=ザイヤートはどうにか逃げ延びることに成功した。 アレクサンドレッタでの敗北はファーティマ朝の軍隊の士気に大きな打撃を与えた。東アラビアで興ったイスマーイール派の過激な分派であるカルマト派のダマスクスに対する進軍の知らせも重なり、ジャアファルは971年7月初旬にアンティオキアへの包囲を解いて撤退するようにフトゥフに命じた。軍隊はダマスクスへ戻り、そこから個々の部隊がそれぞれの出身地へ分かれて行った。
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