アンティウムの敗北とサトゥリクムの破壊(紀元前346年)
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「ローマ・ウォルスキ戦争」の記事における「アンティウムの敗北とサトゥリクムの破壊(紀元前346年)」の解説
リウィウスによると、アンティウムからの植民者が紀元前348年に(紀元前377年に破壊された)サトゥリクムを再建した。続いて紀元前346年に、アンティウムがラティウムを扇動してローマに反乱させようとしているとの報告が届いた。執政官マルクス・ウァレリウス・コルウスはその軍と共にサトゥリクムに進軍、アンティウム軍と他のウォルスキ援軍と戦闘となった。ウォルスキ兵は敗北してサトゥリクムに逃げ込んだが、しかしローマ軍が強襲準備を開始すると、降伏した。兵4,000と多数の非戦闘員が捕虜となった。サトゥリクムは略奪の後、放火された。マテル・ムトゥラ神殿のみが破壊を免れた。コルウスはローマに戻って凱旋式を実施し、降伏した4,000人はコルウスの戦車の前を行進させられ、その後奴隷として売却された。その莫大な売却益は国庫に収められた。リウィウスは、別説として、このとき奴隷として売られたのは、捕虜となった兵士ではなくサトゥリクムでもともと奴隷であった人々であるとも述べている。凱旋式のファスティでは、凱旋式の実施日を2月1日としている。 現代の歴史家はどちらもメテル・マトゥラ神殿のみが残ったとされる、紀元前377年と紀元前346年の二度のサトゥリウムの破壊を研究してきたが、それは単一の出来事の重複記載ではなかと考えている。紀元前348年に街が再建されたとするのは、紀元前346年の破壊を説明するために後世の創作であろう。考古学的調査から、紀元前4世紀半ば以降にはマテル・マトゥラ神殿のみが残っていたことが確認されているため、街が破壊されたのは事実である。しかし、二度の破壊が否定されるとすると、二度の占領も事実ではないかもしれない。紀元前346年に4,000人が奴隷として売られたというのも、それが兵士であれ元奴隷であれ、歴史的事実ではないかもしれない。
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