アンティオキア公国の縮小
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 14:24 UTC 版)
「アンティオキア公国」の記事における「アンティオキア公国の縮小」の解説
タンクレードは1112年に死去し、サレルノ伯ロジェ(ルッジェーロ)が摂政に就くが、1119年のサルマダの合戦で、シリア・セルジューク朝滅亡後アレッポの君主となっていたイル・ガーズィーとの戦いで戦死した。代わってエルサレム国王ボードゥアン2世が摂政に入ってアンティオキア公国はエルサレム王国の保護国となった。 1126年には公位の正統後継者であるボエモン2世が公位に立ったが、1130年、小アジアへの攻略中、ダニシュメンド王の息子に当たるエミール・ガーズィーとの戦いの最中に伏兵にかかり死去した。未亡人でエルサレム王ボードゥアン2世の娘であったアリックス(英語版)がアンティオキアの女公となり、彼女は1128年以降アレッポを拠点にして急速にシリアを回復しつつあったムスリム君主のザンギーと組もうとしたが、ボードゥアン2世は娘の反逆に激怒しアンティオキアを奪回して娘をラタキアに流罪とし、アンティオキア公国は再びエルサレム王(ボードゥアン1世、および1131年よりフルク)の影響下に入った。 フルクは1136年に至ってアンティオキア公位継承者である10歳の公女コンスタンスに36歳のレーモン・ド・ポワティエを娶わせて公位を継がせ、コンスタンスの母であるアリックスの影響を排除したが、この年までにオロンテス川の内陸側の領土はザンギーによって征服されていた。さらに1138年、アレクシオス1世の息子である皇帝ヨハネス2世コムネノスが南下してアンティオキアを攻囲し、レーモンは東ローマ帝国への臣従の誓いを余儀なくされた。十字軍諸国はアンティオキアを東ローマ帝国に返す代わり、東ローマ帝国はシリアの数都市を征服して十字軍諸国に渡すという取り決めとなったため、アンティオキア公国はエデッサ伯国とともに東ローマ帝国のシリア攻撃に従わせられた。最初の攻撃目標であった都市シャイザルの攻撃にあたって、救援に来たザンギーによるムスリム諸王への応援呼びかけや、十字軍国家側と東ローマ帝国側の離反策のために帝国のシリア征服は成功しなかったが、アンティオキアは1142年にヨハネス2世が死ぬまで圧力を受け続けた。 1144年、エデッサ伯国がザンギーによって征服され、アンティオキア公国は1146年にザンギーの死後ザンギー朝を継いだ息子ヌールッディーンの強い攻勢にさらされることになった。この危機に対して派遣された1148年の第2回十字軍はエデッサでもアンティオキアでもなくダマスカスへ向かい失敗に終わり、1149年にレーモンはイナブの戦いでヌールッディーンに敗れて戦死し、アンティオキア公国の東半分はアレッポのザンギー朝によって完全に奪われた。
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