メリテネの戦いとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > メリテネの戦いの意味・解説 

メリテネの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/31 06:25 UTC 版)

メリテネの戦い
十字軍
戦争:十字軍
年月日1100年
場所アナトリア半島マラティヤ
結果:ダニシュメンド朝の勝利
交戦勢力
アンティオキア公国 ダニシュメンド朝
指導者・指揮官
ボエモン1世 (捕虜) ダニシュメンド・ガーズィー英語版
損害
ほとんどが死亡
少数が捕虜
不明
第1回十字軍

メリテネの戦い(メリテネのたたかい、英語: Battle of Melitene)は、1100年アンティオキア公ボエモン1世率いる十字軍勢力がアナトリア半島東部のマラティヤラテン語名メリテネ)でダニシュメンド・ガーズィー英語版率いるダニシュメンド朝トルコ人に敗れた戦闘。

背景と経過

1098年にアンティオキア公になった後、ボエモン1世はキリキア・アルメニア王国と同盟した。メリテネのガブリエル英語版とそのアルメニア人駐留軍が北のダニシュメンド朝勢力に攻撃されると、ボエモン1世はフランク人部隊を率いた救援に馳せてきた。

ダニシュメンド・ガーズィーは遠征軍を待ち伏せし、「十字軍のほとんどが殺された」[1]マラシュアンティオキアのアルメニア人司教が死亡した一方、ボエモン1世はリカルド・ディ・サレルノ英語版 とともに捕虜にされた。

その後

1101年の十字軍の目的の1つにボエモン1世の救出があったが、十字軍は撃破されて失敗し、ボエモン1世は身代金目当てで1103年まで囚われた。

メリテネでの敗北により、第1回十字軍以来の連勝が終わった。エデッサ伯エルサレム王ボードゥアン1世はメリテネの包囲を解いたが、十字軍がボエモン1世の身代金を交渉している間、ダニシュメンド朝は1103年にメリテネを奪取、メリテネのガブリエルを処刑した。

脚注

  1. ^ Eggenberger, p 272

参考文献

  • Eggenberger, David. An Encyclopedia of Battles. New York: Dover Publications, 1985. ISBN 0-486-24913-1



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「メリテネの戦い」の関連用語

メリテネの戦いのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



メリテネの戦いのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのメリテネの戦い (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS