1101年の十字軍と十字軍国家の樹立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 06:05 UTC 版)
「第1回十字軍」の記事における「1101年の十字軍と十字軍国家の樹立」の解説
詳細は「1101年の十字軍」および「十字軍国家」を参照 エルサレムの占領と聖墳墓(キリストの墓)の奪回によって、十字軍は当初の目的を達成した。一報が西欧に伝わると、途中で脱落して帰国した騎士や、未参加の騎士は激しい非難と嘲笑にさらされ、聖職者による破門さえほのめかされた。一方、エルサレムを占領した将兵も大部分は沢山の財産を得て帰国した。シャルトルのフルシェルによれば、1100年のエルサレム王国には数百名(2000名)の兵力しか残っていなかったという。また、1100年にアナトリアで再度メリテネ(マラティア)を攻めていたダニシュメンド王を討とうとしたアンティオキア公ボエモン1世は、メリテネの戦いで逆にダニシュメンドの捕虜となる。十字軍は手薄な状態だったが、イスラム勢力も内輪もめに終始していたので、地盤を固める時間はあった。アンティオキア公国の後継者はボエモン1世の甥で、亡きゴドフロワの下で戦ったタンクレードが就いた。 1101年に入ると、西欧において(途中で脱落した)ブロワ伯エティエンヌやユーグ・ド・ヴェルマンドワによって、新たな軍勢が組織され、他の諸侯との不仲でコンスタンティノープルにいたレーモン・ド・サンジルと合流し、雑兵や民兵を含め10万人近い軍勢が再びエルサレムを目指した。これを1101年の十字軍ともいう。軍勢はアナトリアでアンカラを陥落させたが、捕虜のアンティオキア公ボエモン1世救援に向かった先で、クルチ・アルスラーン1世とダニシュメンドのセルジューク連合軍に散々に打ち破られ壊滅した。生き延びてシリアに達した者はトリポリの港の攻撃に取り掛かった。 トリポリ領主はシリア・セルジューク朝系のダマスカス王ドゥカークと組んで十字軍騎兵を撃退しようとしたが、ドゥカークは以前エルサレムに向かうエデッサ伯ボードゥアンを討つ際に、トリポリ領主がボードゥアンへ密通したため失敗した恨みを忘れていなかった。ドゥカークの軍は十字軍を見て退却、残されたトリポリ軍は大敗した。こうしてレーモン・ド・サンジルは、後々まで十字軍の上陸拠点となるトリポリ伯国を建てた。エルサレムに到着した騎士と兵は、エルサレム王国の守りを固めることになった。やがてイタリアの商人層がシリアの諸港に来航して物資を補給し始め、テンプル騎士団、病院騎士団(聖ヨハネ騎士団)といった騎士修道会が組織されて、エルサレム王国を防衛することになった。
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