ロンバルディア集団
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「1101年の十字軍」の記事における「ロンバルディア集団」の解説
1100年9月、ロンバルディア人を中心とした集団(約5万人ほど)が陸路ミラノを出発した。そのほとんどは一般庶民出身の巡礼者で、パスカリス2世の意を受けて熱心に十字軍参加を説いて回っていたミラノ大司教アンセルモ4世(イタリア語: Anselmo da Bovisio)に率いられていた。彼らは東ローマ帝国領に入ると早速略奪を始めた。東ローマ皇帝アレクシオス1世コムネノスは彼らを先導する軍を派遣し、首都コンスタンティノープルの郊外に設けた宿営へと案内した。しかし一行はこれに不満で、市内へと侵入して街の北西にあるブラケルナイ地区(Blachernae)で略奪を行った。ここには東ローマ皇帝の広壮な宮殿や大聖堂があったが、この宮殿も略奪の対象となり皇帝のペットだったライオンも殺された。ロンバルディア人たちを追い出すために皇帝は彼らをボスポラス海峡の東へと渡し、増援が来るまでニコメディアに宿営を張らせた。 1101年5月、ニコメディアに留まっていたこの集団にフランス人やブルゴーニュ人やドイツ人の騎士からなる少人数だが精鋭の軍団が合流した。これを率いていたのはブロワ伯エティエンヌ2世、ブルゴーニュ伯エティエンヌ1世、ブルゴーニュ公ウード1世、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世の重臣コンラートといった諸侯らであった。 さらに、第1回十字軍の立役者の一人だったトゥールーズ伯レーモン(レーモン・ド・サンジル)も合流した。彼はアスカロンの戦い以後、十字軍に参加した諸侯との争いがもとでエルサレムを去ってコンスタンティノープルに滞在しており、東ローマ皇帝の依頼でこの軍団の総指揮官に任命されていた。東ローマ皇帝は Tzitas 将軍に率いられたペチェネグ人傭兵部隊も同行させた。 彼らは5月末にニコメディアを出発し、レーモン・ド・サンジルやブロワ伯エティエンヌらが第1回十字軍の時にも辿った街道を通ってドリュラエウムに到着した。ここから南にあるイコニウム(現在のコンヤ)へ向かい、更に南東へ進みシリアの十字軍国家と合流するのが常識的な経路であったが、数で騎士を上回っているロンバルディア人の巡礼者たちは、無思慮にもアナトリア半島北東部にあるニクサルへ向かおうと主張した。ニクサルには、メリテネの戦いでダニシュメンド朝に敗れた第1回十字軍の英雄であるアンティオキア公ボエモン1世が捕虜となっており、彼を救出しようというのであった。彼らはとりあえずルーム・セルジューク朝領のアンキュラへ向かい、1101年6月23日にこれを占領して東ローマ帝国へと返還した後、進路を北へ向けた。そして多数の守備兵が守るガングラを攻略、さらに北のカストラ・コムネノン(カスタモヌ)を攻略しようとした。しかし、ルーム・セルジューク朝の応援部隊が襲来、街の周囲で食料徴発を行う十字軍部隊を次々と撃破したため、7月には攻略戦は完全に行き詰ってしまった。 すぐ北の黒海沿岸に逃げ込むという選択肢もあったが、ロンバルディア人たちはあくまでボエモンの救出を主張、全軍は東に進路をとり、ダニシュメンド朝の領内に入った。しかし、ルーム・セルジューク朝の君主クルチ・アルスラーン1世は、第1回十字軍と戦った際のムスリム側の敗因が各勢力の不統一であったことを踏まえて、今回はダニシュメンド朝およびシリア・セルジューク朝のアレッポのリドワーンと連合軍を形成していた。8月初頭、十字軍はメルシヴァン(Mersivan、現在のアマスィヤ県メルジフォン)地方のパフラゴニア(英語版)山地(Paphlagonia)でセルジューク朝連合軍と激突した。
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