アルメニア人の支配
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 14:24 UTC 版)
「アンティオキア公国」の記事における「アルメニア人の支配」の解説
1194年、ボエモン3世は北部に隣接するキリキア・アルメニア王国と争い、講和条件としてキリキア王の娘を自身の長男レーモン(英語版)と娶わせた。この婚姻から生まれたレーモン・ルーペン(英語版)はアンティオキア公とキリキア王の血を引くことになり、ボエモン3世の次男でトリポリ伯国を継承していたボエモンが、1201年の父の死に伴ってアンティオキア公ボエモン4世(英語版)として即位すると、アンティオキア公国に対するキリキアのアルメニア人の干渉を招くことになった。キリキア王は1216年からレーモン・ルーペンをアンティオキア公位につけることに成功するが、1219年にボエモン4世がアンティオキア公位に復帰し、アンティオキア公国とトリポリ伯国は同君連合となった。ボエモン4世の死後、同名のボエモン5世(英語版)、ボエモン6世(英語版)が続くが、その後の十字軍においてアンティオキア公国が貢献するところはなかった。 1254年にボエモン6世はキリキア王ヘトゥーム1世の娘と結婚し、両国はアンティオキア公位を巡る抗争に終止符を打ったが、これによってアンティオキア公国はほとんどキリキア・アルメニア王国の属国のようになった。
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