アルメニア人の主張
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 01:51 UTC 版)
「ナゴルノ・カラバフ自治州」の記事における「アルメニア人の主張」の解説
アルメニア人の側は、自治州においては常にアルメニア人の権利が侵害され続けてきたと主張する。まず、アゼルバイジャン政府は自治州にアゼルバイジャン人を移住させることにより、アルメニア人勢力の縮小を図ったという(実際に、自治州のアゼルバイジャン人は1980年代までに3倍に増加し、アルメニア人の割合は1923年の94.4パーセントから1979年には75.9パーセントに低下している)。 学校ではアルメニア史の授業は禁止され、アルメニア語の教材も制限されたという。さらに、自治州各地に数世紀前から残る教会建築の数々も、アゼルバイジャン人によって爆破され、銃撃され、石材として転用され、当局はその修復作業も行わなかったとされる。また、アゼルバイジャン人がアルメニア人を殺しても捜査や裁判はまともに行われず、あるいは「ナショナリズムを煽らないよう」アルメニア人が犯人であるかのように報道されたという。 工場や企業なども、自治州外の遠く離れた地域の管轄に置かれたために生産計画が破壊され、自治州の工業生産は人口当たりでも常にアゼルバイジャン全土で最低であったという。このような管理形態は、ナゴルノ・カラバフの経済を破壊しアルメニア人を国外逃亡させることを目的としていた、と主張される。また、1980年から1986年の間にアゼルバイジャン全体の主要生産予算は43パーセント増加したが、同時期に自治州のそれは17パーセント減少したとされる。加えて、農産物などの供出割り当ても、農業地帯として知られるナヒチェヴァン自治共和国よりも多く、1986年の時点で人口一人当たりの家畜の供出割り当てはナヒチェヴァンの4.6倍であったという。 自治州の住居は、1980年代末の近代的な村でも、その27.2パーセントが第二次世界大戦以前に建てられたままであり、さらにそのうち36.5パーセントは十月革命以前からのものであったという。また、シュシャは1920年にアゼルバイジャン民主共和国軍によるアルメニア人の虐殺(シュシャ虐殺(ロシア語版))があって以来ゴーストタウンと化しており、その再建は1961年になるまで行われなかった。 自治州内での都市と地方を結ぶ舗装道路も、自治州とアルメニア本国までの僅かな距離を結ぶ舗装道路も敷かれることはなかった(設立当初の自治州はラチン回廊も領域としていたが、1930年代に回廊が自治州から除かれたため、以降アルメニア本国とは完全に隔たれた状態となった)。鉄道路線は、ステパナケルト=アグダム間の18キロメートルのみに敷かれていた。1988年に中央から現地を訪れたグリゴリー・ハルチェンコは、「道路はさながら核戦争の後のようで」、水道も非衛生的であったと語っている。
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