徳川政権による国交回復
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 23:08 UTC 版)
「日朝関係史」の記事における「徳川政権による国交回復」の解説
秀吉の死後、日本では徳川家康による武家政権である江戸幕府が成立した。徳川家康は、秀吉の「唐入り」には消極的で朝鮮半島に派兵せず、朝鮮との国交回復を望み、宗氏を介して使節を派遣した。こうして徳川家康と李朝の間で国交回復の交渉が進められた。光海君は捕虜の送還や貿易交渉に応じ、己酉約条が結ばれて貿易が再開された。李朝は日本との正式な国交がある通信国となった。日朝の交渉を仲介した対馬藩は、早期の国交回復をさせるために徳川幕府の国書やそれに対する李朝の返答書を偽造、改竄していた。改竄が発覚して関係者が処罰される柳川一件が起こり、柳川一件ののちに貿易は幕府が管轄した。 日本人が国交のない地で救助された場合は帰国が保証されておらず、滞在が長期にわたったり帰国できない場合があった。日本、琉球、李朝、清では漂流民の送還が行われるようになり、朝鮮に漂着した日本人は、保護のもとで比較的に短期間で帰国できた、秀吉後の断交状態でも日朝相互の漂着民の送還は行われており、江戸幕府の寛永期には両国で漂流民を送還する体制が整えられた。1618年から1872年までに朝鮮から送還された日本人は1200人を超える。外国に漂着した者は、帰国後に他国への往来を禁じられて死亡時は幕府に届け出る必要があったが、朝鮮からの帰国者は緩和が進み、漂着前と同じ生活が送れるようになった。若狭国以西では、畠山氏のように漂流民の送還とともに李朝との貿易を行おうとする大名や、李朝に使者を送った大名もいた。
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