徳川慶喜の将軍就任
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「鳥羽・伏見の戦い」の記事における「徳川慶喜の将軍就任」の解説
江戸幕府第14代征夷大将軍・徳川家茂薨去後、老中・板倉勝静と幕臣・永井尚志はご遺命と称し、徳川宗家が初代家康以来代々継いできた将軍職の相続を、徳川慶喜へ勧めてやまなかった。12代将軍・徳川家慶の命で水戸徳川家から一橋徳川家の養子になり、のち父方の主家にあたる徳川宗家の将軍後見職とされ、また禁裏御守衛総督として母方(有栖川宮家)の主家にあたる天皇家へ侍っていた慶喜だったが、「予には以前ご養君の一件(未成年のまま14代の前将軍を継いだ家茂との間で生じた将軍継嗣問題)があって、さも将軍になろうとする野心があるかのよう風説で中傷された経験があるので、いまもし将軍職を継げばますます世評を害することになるだろうから受け入れがたい」と板倉らへ説明し、将軍職継承を拒んでいた。長倉と永井両人は「仰せられる事は誠にご道理ではありますが、いまのまつりごとの歩みは実に国難の際で、貴卿ならずんばこの政局にあたって適う人はひとりもございません。とにかく、ご議論をなさらず是非お引き受けください」と拒む慶喜へいった。慶喜は「たとえ朝廷からご沙汰があろうとも、お受けいたしますまい」というが、両人は「決して朝廷のご沙汰を請うような事はつかまつりますまいが、ただわれらが誠意をもって、貴卿のご許諾を待つのみでございます」というと、毎日慶喜のもとへやってきて「今日はどうなさいますか」「今日はどうなさいますか」と迫ってきていた。この間、慶喜にも思いを巡らしていたふしがあり、ひそかに水戸藩士の側近・原市之進を召して本当の心の内を語り、「板倉と永井らにはご養君の事で辞めると説明したが、実はあのような事はどうでもよい。ただつらつら考えると、今後の処置は極めて困難で、どうなりゆくかも予想がつかない。いづれにしても、徳川家をこれまでのよう持ち伝えようとするのは覚束ないので、この際いっそ断然と王政の御世にかえしてひたすら忠義を尽くそうと思うが、なんじの心に思うところはどうか」と問いかけた。原は「ご尤ものご存知よりではございますが、もし挙国一致できなければ非常な紛乱をまねくでしょう。第一、そのような大事を決行するに堪えられる人がございましょうか。今の老中らでは、まことに失礼ながら、無事なしとげられるとも拙者には思えませぬ。人物がいないわけではございませんが、いまのご制度では、急に身分の低い者を登用して大事に当たらせるのもまた、難しいでしょう。そうであれば、ご先祖以来の規範をご持続なさいます方がよろしいでしょう」といった。このため慶喜はまだ大政奉還をこのとき決行することはできなかったが、板倉と永井をよぶとついに「徳川宗家(徳川氏の本家)を継ぐだけで、将軍職は受けずに済むなら、足下らの願いに従ってもよい」といった。板倉と永井らはそれでもよいでしょうと、慶喜は宗家を相続した。このとき一橋徳川家の家臣で慶喜に仕えていた元農民(名主)の志士・渋沢栄一は、慶喜の為にはわが主君が国事の難局に当たって宗家を継ぐべきではないと考え、原へなにゆえ宗家相続へ反対しないのかと進言したが、採用されなかったので、たとえようもないほど落胆した。慶喜がいざ宗家を相続してみると、老中らはまた「将軍職も受けてくださいますよう」と強請してくるだけでなく、対外的な統一政権としての外国との関係――外交上の代表権の問題。大政奉還以前、天皇ではなく征夷大将軍(大君)が事実上の日本の主権を持つ、唯一の公的政権の代表者だった――なども重なって、結局は将軍職も許諾せざるをえなくなった。この頃、慶喜は大政奉還の志をもちはじめ、「東照公(徳川家康公)は日本国のために幕府を開き将軍職に就かれたが、予は日本国のために幕府を葬る任にあたるべき」との覚悟を定めた。 12月5日、慶喜は二条城で明治天皇から江戸幕府第15代征夷大将軍の宣下を受けた。
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