徳川忠長配下
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元和5年(1619年)、駿河国、遠江国、甲斐国が徳川忠長の領地となり、領地が含まれる政成もそのまま忠長に属することとなった。政成の子の政次の室は、忠長の附家老であった鳥居成次の娘である。 寛永9年(1632年)忠長が失脚し改易されると、政成も連座して上野国舘林藩主榊原忠次預かりとなった。寛永13年(1636年)9月に赦免され、武蔵国・上野国に3080石を与えられた。 寛永20年(1643年)、死去。 家督は嫡子・政次が継いだ。正次もまた幕府の役人として良く勤めた。 その他の子達は、以下の通りである。 次男の成澄は甲府藩主徳川綱重に仕えたが、子が無かったため兄の正次の子を養子とした。子孫は旗本となった。 三男の正春(内記)は素行が悪く、政成に勘当されていた。政成と懇意であり、勘当の件を聞きつけた肥前国福江藩第2代藩主の五島盛利が正春を家臣にと所望したため、寛永19年(1642年)に400石の福江藩士となった。扱いは高く、五島盛利の娘、つまり次代の第3代藩主五島盛次の姉妹を妻に迎えている。のちに義兄の五島盛清が福江本藩からの独立を画策した際(富江藩)、福江側の正春と幕府側の正次が交渉に関与している。その後正春は、正次を通して幕臣復帰を申し出て、福江藩士から幕府旗本となった。一方で五島家とは手切れではなく、正春は後継ぎに第4代藩主五島盛勝の庶子の盛栄(日向正竹)を迎えている。ただし正竹死後、旗本日向正春家の三代目を継いだのは、正春の実子の正勝であった。 五男の正久は4代将軍徳川家綱に仕え3百俵。小姓組番士を勤め、別家を興し旗本となった。
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