徳川幕藩体制下とは? わかりやすく解説

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徳川幕藩体制下

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 03:16 UTC 版)

「忍者」記事における「徳川幕藩体制下」の解説

伊賀衆甲賀衆一部本能寺の変の際に、堺(現・大阪府堺市)の見物訪れていた徳川家康護衛して伊賀越え行なったことから、徳川幕府召抱えられるようになったこの際200名程の伊賀衆仕官したが、1582年から1615年の間に75名が死亡しており、記録によれば危険な城攻め前線などに投入され戦死した者が多かったという。その過酷な任務対し知行10程度薄給であった事もわかっている。 伊賀越以前からの家臣であった服部半蔵重用され江戸城城門一つにその名が付けられ、現在も東京地名半蔵門」として残っている。彼らは、徳川幕府のために諸大名内情を探るだけでなく、江戸城下世論調査大奥警護空き家となった屋敷管理なども担当し同心として江戸城下治安警護当たった徳川家光家光体制)時、老中松平信綱阿部忠秋堀田正盛)、御側中根正盛)は、武断政策強硬に進めたその結果浪人増え社会問題化し、島原の乱慶安の変といった大規模な事件一揆)が発生した大目付として諸国様子監視を任とした中根正盛国目付(諜報員)を諸方派遣して、その動き詳細に調べさせた。島原の乱出陣した討伐上使松平信綱近江国水口宿出迎えた甲賀之古士共(甲賀衆余名)は、かねてより存知間柄にあった信綱に参陣への懇願をしたが、集団的な参陣は認められ10名のみが随行許されることとなる。信綱より10名に命ぜられる内容は、甲賀忍者が得意としたゲリラ戦ではなく陣所から城までの距離、沼の深さ、塀の高さ、矢狭間実態などの諜報活動隠密活動であった一揆軍立てこもった原城内を探索した兵糧盗み取るなど活躍したものの、落とし穴に嵌って敵から石打にあい半死半生逃げ出したこともあった。結局、彼ら10名は奮闘空しく軍功認めらることなく戦後仕官することは叶わなかった。個人的な諜報能力の高い者のみが、幕府諸藩取り立てられる時代になった島原の乱忍者最後に活躍した戦いであると、言われている[要検証ノート]。隠密機関成果として慶安の変の際に、武功派で幕閣批判的であったとされる紀州藩主徳川頼宣幕政批判首謀者とし失脚追い込むことに成功したことが挙げられる強固中央集権的な江戸幕府監察活動常態化始めたのは、この頃からである。 戦国時代末期の侍衆改易処分領地失い没落した甲賀古士は幕府に対して仕官という形での救済訴願している。この時一緒に提出したのが『萬川集海』である。 「御庭番」は忍者思われがちだが、八代将軍徳川吉宗紀州藩から連れて来た込役を伊賀者同格格付けしただけに過ぎず忍者とはかかわりがない。土地残った伊賀衆甲賀衆そのまま百姓身分化した。 「御庭番」も参照 マシュー・ペリー率い黒船浦賀沖に来航した際、藤堂藩無足人沢村甚三郎調査のために船上パーティー日本随員として参加しパンタバコ蝋燭便箋持ち帰った。これがいわゆる忍者活動最後だった。明治維新期になると甲賀古士らは一転して倒幕となり甲賀隊を結成して戊辰戦争参加するも、忍術書に見られるような術は実戦何の役にも立たなかった。

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徳川幕藩体制下

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 04:12 UTC 版)

隠密」の記事における「徳川幕藩体制下」の解説

寛永12年1635年)に徳川家光御側中根正盛に、正規監察機構とは別に監察権限与えて将軍直属監察機構設けさせ、正盛に幕藩体制社会全般動向把握させる事により家光への情報源とした。中根正盛配下与力22名は国目付として諸国監察を任とし、主に諜報活動従事した。正盛は、これらの与力通して全国各藩津々浦々隠密組織保持し情報網張り巡らせていた。その隠密組織幕閣という政府組織一角諜報機関として組織化し掌握した寛永14年1637年)の島原の乱出陣した討伐上使松平信綱近江国水口宿出迎えた甲賀衆余名は、かねてより存知間柄にあった信綱に参陣への懇願をしたが、集団的な参陣は認められ10名のみが随行許される事となる。信綱より10名に命ぜられる内容は、甲賀忍者が得意としたゲリラ戦ではなく陣所から城までの距離、沼の深さ、塀の高さ、矢狭間実態などの隠密活動であった一揆軍立てこもった原城内を探索した兵糧盗み取るなど活躍したものの、落とし穴に嵌って敵から石打にあい半死半生逃げ出した事もあった。結局、彼ら10名は奮闘空しく軍功認めらる事なく、戦後仕官する事は叶わなかった。個人的な諜報能力の高い者のみが、幕府諸藩取り立てられる時代になった隠密活動成果として有名なものは、慶安4年1651年)の慶安の変の際に、老中松平信綱大目付中根正盛隠密集団活用して武功派で幕閣批判的であったとされる紀州藩主徳川頼宣幕政批判首謀者とし失脚させ、武功勢力崩壊追い込んだ事が挙げられる徳川吉宗紀州藩より連れてきた広敷伊賀者改編御庭番として、将軍直属諜報機関据え吉宗への情報源とした。御庭番表向きには江戸城奥庭管理する役職として、将軍近侍である御側御用取次管理下に置かれ隠密活動従事した江戸南北町奉行所に、町奉行直属潜入諜報を行う隠密廻り同心が2名づつ所属をしていた。奉行への報告済ませると、奉行から命じられ次の潜入先に行き罪人捕縛には与力配下の定町廻り同心小者同心の手先の御用聞きその手先の下っ引き出向いて実施していた。隠密廻り同心潜入先に身分等が明るみになる事の無い様に、自らは決し罪人捕縛成敗、には出向く事は無かった。 その他、目付支配下徒目付小人目付勘定奉行支配下普請役鳥見役人などが隠密活動従事していた。彼らは身分的には低かったが、植村政勝村垣範正など御庭番出身歴史名を残した人物存在する間宮林蔵晩年幕府隠密になったとされ、竹島事件シーボルト事件などに関与したといわれている。また、諸藩においても下級武士などが隠密役に任じられ領内外の情勢を探らせた。

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