徳川幕藩体制下
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伊賀衆甲賀衆の一部は本能寺の変の際に、堺(現・大阪府堺市)の見物に訪れていた徳川家康を護衛して伊賀越えを行なったことから、徳川幕府に召抱えられるようになった。この際、200名程の伊賀衆が仕官したが、1582年から1615年の間に75名が死亡しており、記録によれば危険な城攻めの前線などに投入され戦死した者が多かったという。その過酷な任務に対し、知行は10石程度と薄給であった事もわかっている。 伊賀越以前からの家臣であった服部半蔵は重用され、江戸城の城門の一つにその名が付けられ、現在も東京の地名「半蔵門」として残っている。彼らは、徳川幕府のために諸大名の内情を探るだけでなく、江戸城下の世論調査、大奥の警護、空き家となった諸屋敷の管理なども担当し、同心として江戸城下の治安の警護に当たった。 徳川家光(家光体制)時、老中(松平信綱・阿部忠秋・堀田正盛)、御側(中根正盛)は、武断政策を強硬に進めた。その結果、浪人が増え社会問題化し、島原の乱や慶安の変といった大規模な事件(一揆)が発生した。大目付として諸国の様子の監視を任とした中根正盛が国目付(諜報員)を諸方に派遣して、その動きを詳細に調べさせた。島原の乱に出陣した討伐上使・松平信綱を近江国水口宿で出迎えた甲賀之古士共(甲賀衆百余名)は、かねてより存知の間柄にあった信綱に参陣への懇願をしたが、集団的な参陣は認められず10名のみが随行を許されることとなる。信綱より10名に命ぜられる内容は、甲賀忍者が得意としたゲリラ戦ではなく、陣所から城までの距離、沼の深さ、塀の高さ、矢狭間の実態などの諜報活動(隠密活動)であった。一揆軍の立てこもった原城内を探索したり兵糧を盗み取るなど活躍したものの、落とし穴に嵌って敵から石打にあい半死半生で逃げ出したこともあった。結局、彼ら10名は奮闘も空しく軍功を認めらることなく、戦後に仕官することは叶わなかった。個人的な諜報能力の高い者のみが、幕府や諸藩に取り立てられる時代になった。島原の乱は忍者が最後に活躍した戦いであると、言われている[要検証 – ノート]。隠密機関の成果として慶安の変の際に、武功派で幕閣に批判的であったとされる紀州藩主・徳川頼宣を幕政批判の首謀者とし失脚に追い込むことに成功したことが挙げられる。強固で中央集権的な江戸幕府の監察活動が常態化し始めたのは、この頃からである。 戦国時代末期の侍衆改易処分で領地を失い没落した甲賀古士は幕府に対して仕官という形での救済を訴願している。この時一緒に提出したのが『萬川集海』である。 「御庭番」は忍者と思われがちだが、八代将軍・徳川吉宗が紀州藩から連れて来た薬込役を伊賀者と同格に格付けしただけに過ぎず、忍者とはかかわりがない。土地に残った伊賀衆甲賀衆はそのまま百姓身分化した。 「御庭番」も参照 マシュー・ペリーの率いる黒船が浦賀沖に来航した際、藤堂藩の無足人沢村甚三郎が調査のために船上パーティーに日本側随員として参加し、パン、タバコ、蝋燭、便箋を持ち帰った。これがいわゆる忍者の活動の最後だった。明治維新期になると甲賀古士らは一転して倒幕となり甲賀隊を結成して戊辰戦争に参加するも、忍術書に見られるような術は実戦に何の役にも立たなかった。
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徳川幕藩体制下
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 04:12 UTC 版)
寛永12年(1635年)に徳川家光は御側・中根正盛に、正規の監察機構とは別に監察権限を与えて将軍直属の監察機構を設けさせ、正盛に幕藩体制社会全般の動向を把握させる事により家光への情報源とした。中根正盛配下の与力22名は国目付として諸国監察を任とし、主に諜報活動に従事した。正盛は、これらの与力を通して全国(各藩)津々浦々に隠密組織を保持し、情報網を張り巡らせていた。その隠密組織を幕閣という政府組織の一角に諜報機関として組織化し掌握した。 寛永14年(1637年)の島原の乱に出陣した討伐上使・松平信綱を近江国水口宿で出迎えた甲賀衆百余名は、かねてより存知の間柄にあった信綱に参陣への懇願をしたが、集団的な参陣は認められず10名のみが随行を許される事となる。信綱より10名に命ぜられる内容は、甲賀忍者が得意としたゲリラ戦ではなく、陣所から城までの距離、沼の深さ、塀の高さ、矢狭間の実態などの隠密活動であった。一揆軍の立てこもった原城内を探索したり兵糧を盗み取るなど活躍したものの、落とし穴に嵌って敵から石打にあい半死半生で逃げ出した事もあった。結局、彼ら10名は奮闘も空しく軍功を認めらる事なく、戦後に仕官する事は叶わなかった。個人的な諜報能力の高い者のみが、幕府や諸藩に取り立てられる時代になった。 隠密活動の成果として有名なものは、慶安4年(1651年)の慶安の変の際に、老中・松平信綱と大目付・中根正盛が隠密集団を活用して、武功派で幕閣に批判的であったとされる紀州藩主・徳川頼宣を幕政批判の首謀者とし失脚させ、武功派勢力を崩壊に追い込んだ事が挙げられる。 徳川吉宗は紀州藩より連れてきた広敷伊賀者を改編し御庭番として、将軍直属の諜報機関に据え、吉宗への情報源とした。御庭番は表向きには江戸城の奥庭を管理する役職として、将軍近侍である御側御用取次の 管理下に置かれ、隠密活動に従事した。 江戸の南北町奉行所に、町奉行直属の潜入諜報を行う隠密廻り同心が2名づつ所属をしていた。奉行への報告を済ませると、奉行から命じられた次の潜入先に行き、罪人捕縛には与力配下の定町廻り同心、小者、同心の手先の御用聞き、その手先の下っ引きが出向いて実施していた。隠密廻り同心は潜入先に身分等が明るみになる事の無い様に、自らは決して罪人捕縛、成敗、には出向く事は無かった。 その他、目付支配下の徒目付・小人目付、勘定奉行支配下の普請役・鳥見役人などが隠密活動に従事していた。彼らは身分的には低かったが、植村政勝・村垣範正など御庭番出身で歴史に名を残した人物も存在する。間宮林蔵も晩年は幕府の隠密になったとされ、竹島事件やシーボルト事件などに関与したといわれている。また、諸藩においても下級武士などが隠密役に任じられて領内外の情勢を探らせた。
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