徳川慶喜の逃亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 12:14 UTC 版)
1月8日の夜、開陽丸が大阪湾を出発、紀州大島をへて5、6里のころ、北西からの風が起きて刻一刻と猛烈になり、ふねは風に流された。ふねは普段の航路を航路をとれなくなったため、蒸気をとめると由良に寄港しようとしたが、風任せに沖合へ流された。暴風雨がやっとおさまった10日の暁ころ、一行のふねは八丈島の北、5、6里の沖に漂っていた。船中の人々はだからといって安心もできず、その日の夕方にはなんとか事なきを得て浦賀湾に入りえた。慶喜は金200両をあたえ船員をねぎらった。11日には艦艇が品川沖に入った。慶喜は12日未明を待って、浜御殿に上陸し、午前11時頃には騎馬で江戸城の西丸に入った。 幕臣・勝海舟の日記によると、「11日開陽丸が品川沖に錨を下すと、使い(の船)が有り、あかつきころに(上様、慶喜公一向は)浜の海軍所に至った。そこで私は始めて伏見の顛末を聴いた。会津候(松平容保公)、桑名候(松平定敬公)ともに、上様のお供のなかにいらっしゃった。私は詳しいことを問おうとしたが、一同の顔色は土のごとくで、互いに目配せをするばかりで口を開く者はいなかった。わずかに板倉閣老(ご老中・板倉勝静翁)から鳥羽・伏見の戦いの概略を聞くことができた」と、ひどく沈んだ様子の、江戸上陸時の慶喜一行の状況だった。
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