爨習とは? わかりやすく解説

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爨習Cuan Xi

サンシュウ
サンシフ

(?~?)
蜀領軍

建寧郡の人。妻の甥は李恢である《李恢伝》。

もともと建寧郡豪族で、劉璋時代建伶県長をしていたが法律違反した李恢伝》。そのとき罷免されたものか、のちに諸葛亮南中平定したとき孟獲とともに官に召されている《華陽国志》。諸葛亮属して参軍・偏将軍となり、建興九年(二三一)に李厳罷免報告する上表文名を連ねる李厳伝》。のち官位は領軍まで昇った《李恢伝》。

『華陽国志』では李恢孟獲とともに建寧郡士人として称えている。

参照諸葛亮 / 孟獲 / 李恢 / 李厳 / 劉璋 / 益州郡建寧郡) / 建伶県 / 南中 / 県長 / 行参軍 / 偏将軍 / 領軍 / 華陽国志 / 大姓(豪族


爨習

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/06 07:51 UTC 版)

爨 習(さん しゅう、生没年不詳)は、中国三国時代の武将。益州建寧郡の人。李恢のおばの夫にあたる。

生涯

劉璋の頃、爨習は(益州郡)建伶の県令であったが、法律違反により免官となるはずであった(義理の甥の李恢も連座)。しかし、益州太守の董和は爨習が地元の豪族であることを鑑みて不問とした[1]

建興3年(225年)、諸葛亮は南征の戦後処理として南中の兵士の内、強者は蜀に移し、弱者は豪族の焦、雍、婁、爨、孟、量、毛、李氏の部曲とし、それら五部都尉は「五子」と呼ばれた。また俊傑である建寧の爨習、孟獲、朱堤の孟琰らを朝廷に招いた[2]

建興9年(231年)、李厳への弾劾文に「行參軍・偏将軍の爨習」として名を連ねている。最終官位は領軍将軍まで昇った。『華陽国志』では建寧の人士として李恢、爨習、孟獲ら三人が挙げられている。

爨族との関り

西晋以降、東爨、西爨という部族が寧州で確認される。

『雲南通志』[3]によれば爨氏は子文の後裔・班氏が、後漢末期に食邑の「爨」に因んで爨氏を名乗りだし、三国時代では爨習、晋の頃は興古太守・爨琛がいたという[4]

新唐書[5]によれば両爨蛮のうち西爨は、七世祖の晋の南寧太守が戦乱から蛮王になったという[6]

脚注

  1. ^ 『三國志』李恢伝
  2. ^ 『華陽国志』
  3. ^ 『雲南通志』《卷三十》兩爨「兩爨楚令尹子文之後受姓班氏西漢末食邑於爨遂以為氏。三國漢時諸葛亮南征辟爨習為官屬。晋時有興古太守爨琛與将軍姚岳共破李驤於堂狼。又有梁水大守爨亮叛降李雄為寧州刺史尹奉所誅自後南北分争寧州道絶爨氏以方土大姓自王蛮中」
  4. ^ 『万姓統譜』晋の爨深は興古郡の人で興古郡太守となり、南寧県の南十餘里に興古太守爨府君碑がある
  5. ^ 『新唐書』南蛮下「西爨自云本安邑人,七世祖晋南寧太守,中國亂,遂王蠻中。」
  6. ^ 晋に南安郡はなく同地は夜郎郡にあたる。晋の頃は交阯太守・爨谷、梁水太守・爨亮がいた。また「晋南寧太守」は南朝宋の441年にみられる「晋寧太守・爨松子」の事を指す誤記かもしれない。


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