反革命分子とされる
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1952年、文芸整風運動の一環で人民日報に批判された。この時はまだ罪に問われたわけではなく、1953年には作家協会の常務理事に選出されている。 1954年9月、台湾に亡命していた作家胡適が批判され、いわゆる胡適思想批判が始まった。これに関連して胡風は『文芸報』編集部や党の文化官僚を批判、さらに袁水拍や周揚が胡風に反論した。 一連の動きを見た毛沢東は胡風を反革命分子と認定、1955年5月16日に逮捕された。梅志、路翎、牛漢らの仲間も罪状も明らかにされず次々と逮捕あるいは監禁された。彼らは「胡風反党集団」と呼ばれた。逮捕を命じたのは羅瑞卿、その罪は郭沫若により「反革命」とされた。その後、蒋介石のスパイ、あるいはその協力者と判定された。ただしこれは冤罪であった。というよりも、中国共産党による後付けの理由である。この際に逮捕された者は92人、調査された者は2千人以上に昇った。このうち公式に胡風集団と認定されたものは78名、このうち免職、労働教育、下放労働などの処理を受けた者は61名だった。 胡風らは政治犯監獄である秦城監獄(zh)に収監された。このうち、罪が軽いとされた者は1年ほどで釈放されたが、一方、阿壠、賈植芳、耿庸など罪が重いとされたものは1960年代の後半まで収監された。胡風自身は10年間入獄し、10年目に懲役14年の判決が下った。さらにその後、無期懲役に切り替えられた。 胡風らが逮捕された後、中国の文芸界関係者はこの事件に関する意見書を出すことが義務付けられた。そこで沈黙することは許されず、胡風らを批判することしか許されなかった。胡風らを擁護した者は獄に入れられた。このため呂熒は1年間軟禁され、さらに文化大革命で再び収監されて獄中で死亡した。もっとも、大多数の文芸界関係者は表面上は胡風を批判することで、その地位を保った。 毛沢東は1956年4月25日、『十大関係を論ず』(zh)で「胡風問題」について「(胡風のような)反革命分子はゴミであり、害虫であるが、捕まえた以上は殺さず人民のために働かせるべきだ」(反革命是廃物,是害虫,可是抓到手以後,卻可以譲他們給人民辦点事情。)と述べている。
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