興隆と恐怖
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/03 21:31 UTC 版)
山岳派の興隆は、ジロンド派の凋落と符合する。ジロンド派は1791年6月20日にフランスを脱出しようとした後のルイ16世と行う行動の修正を躊躇した。ジロンド派の一部は、国王を表看板として使えると信じた。ジロンド派が躊躇する一方で、山岳派は1792年12月-1793年1月の裁判で一致した立場を取り、国王の処刑に賛成した。 勝利に乗っかり山岳派はジロンド派の信用を貶めようと努めた。嘗て嘘つきや革命の敵と告発するジロンド派に用いられた手段を用いた。山岳派への支援を得ながらニコラ・ヘンツ(英語版)が相続の制限を提案した立法委員会も形成した。ジロンド派はその後ジャコバン派から禁止され1793年5月31日-6月2日の国民公会から排除された。抵抗の目論見は、全て弾圧された。その際マクシミリアン・ロベスピエールは公安委員会を利用することで山岳派に対する権力を確かなものにし続けた。
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