興隆と衰亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/05 23:59 UTC 版)
ポルトガル領マラッカ(英語版)との戦いでアディパティ・ウヌス(在位:1518年 - 1521年)は若くして死んだうえに、王子がいなかったので兄弟のスルタン・トゥルンゴノ(インドネシア語版)がドゥマク王国の王位につき、1521年から1546年までドゥマク王国を統治した。 スルタン・トゥルンゴノは、支配地域拡大の努力を続けた。1522年、ポルトガルとパジャジャラン王国の関係を断ち切らせるために、ファタヒラー(インドネシア語版)指揮下の部隊を西部ジャワに派遣した。ポルトガル艦隊はファタヒラーの艦隊に破れた。この勝利により、ファタヒラーは、スンダ・クラパ(英語版)の名前を勝利を意味するジャヤカルタに改名した。この出来事は1527年6月22日に起きたので、毎年この日はジャカルタ市誕生の日として祝われている。 東部ジャワへの支配の拡大は、スルタン・トゥルンゴノ自身が部隊を率いてマディウン、グルシック(インドネシア語版)、トゥバン、マラン(英語版)と一つ一つ支配下に収めていった。しかし、1546年のパスルアン攻略時に、戦死してしまった。 スルタン・トゥルンゴノの死後は後継者争いが激化し、指導者の不在と度重なる粛清によってドゥマク王国は弱体化していき、パジャン王国(英語版)(1568年 - 1586年)の時代を迎えた。
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