聖職者民事基本法と戸籍管理の世俗化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 10:14 UTC 版)
「フランス革命期における非キリスト教化運動」の記事における「聖職者民事基本法と戸籍管理の世俗化」の解説
「聖職者民事基本法」も参照 1789年8月、フランス国家は教会の徴税権を奪った。教会財産の問題は新しく成立した革命政府の政策の中心課題となった。フランスのすべての教会が国家に属し、教会財産の没収が命じられ、競売にかけられることが宣言された。1790年7月、憲法制定国民議会は聖職者民事基本法を公布し、従来保有していた聖職者の特権を剥奪し、国家によって雇われる存在となり、聖職者は教区または司教区ごとに俗人による選挙で選ばれることとなり、すべての司祭と司教に新しい市民社会の秩序に忠誠を宣誓することを要求し、さもなくば解雇、追放、あるいは死刑に処せられることとした。 フランスの司祭たちは、こうした宣誓書に署名するためにローマ教皇の承認を受けなければならず、教皇ピウス6世はこの問題について約8か月間にわたってローマ教皇庁で審議した。1791年4月13日、教皇ピウス6世は聖職者民事基本法を非難し、これによってフランスのカトリック教会は分裂した。 50パーセント以上が国家と市民社会に忠誠を誓う「憲法派聖職者」となり、宣誓を拒否した僧は「正統教会」を自称する「不服従聖職者」となった。 パリでは、1791年憲法後に召集された立法議会が開かれたが、混乱は解消できず、1792年9月2日から48時間にわたって3名の司教と200名以上の司祭が憤激する暴徒によって殺害された。 これは「九月虐殺」として知られるようになった。司祭たちはジャン=バティスト・カリエの指示の下、外患罪の罪状で大量処刑(溺死刑)を受けた。リヨンでは、司祭や修道女たちがジョゼフ・フーシェとジャン=マリー・コロー・デルボワの命令で分離主義のかどで大量処刑された。ロシュフォール港でも何百人もの司祭が投獄され、困難な状況で苦しんでいた。 保守派が逃亡してジロンド派が多数派となった立法議会は、さらに領主貢租の無償廃止や宣誓拒否聖職者の国外追放などを決めたが、過激化したパリの民衆はジロンド派への圧力を強めた。立法議会解散直前の1792年9月20日、議会は住民の民事的身分を認証する役務を教区教会から地方自治体に移した。国家は従来教会が掌握し、管理していた人びとの出生、死亡、結婚に関する記録を接収し、自らの管掌下に置いた。結婚は役所に届け出ることが正規の手続きとされ、カトリックの教義に反して離婚を合法化させた。これにより、離婚を認める世俗の法とそれを認めないカトリック教会の法は、婚姻に関する限り相容れないものとなった。離婚法の制定は、僧侶の結婚さえ合法化するものであり、教会法はもはや打ち捨てられたに等しかった。同時に、教会が反革命勢力の本拠となっているという根強い見方は、フランス全土の都市や集落において社会的・経済的な不平不満や暴力を悪化させた。
※この「聖職者民事基本法と戸籍管理の世俗化」の解説は、「フランス革命期における非キリスト教化運動」の解説の一部です。
「聖職者民事基本法と戸籍管理の世俗化」を含む「フランス革命期における非キリスト教化運動」の記事については、「フランス革命期における非キリスト教化運動」の概要を参照ください。
- 聖職者民事基本法と戸籍管理の世俗化のページへのリンク