聖職者叙任権闘争時代のカンタベリー大司教とは? わかりやすく解説

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聖職者叙任権闘争時代のカンタベリー大司教

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/15 06:44 UTC 版)

アンセルムス」の記事における「聖職者叙任権闘争時代のカンタベリー大司教」の解説

その後アンセルムスは、師であったランフランクス継いでカンタベリー大司教となるが、当時オットー1世の「オットー特権」(963年)、ハインリヒ3世教会改革運動を巡るいざこざ(1030-40年代)を始まりとし、有名なカノッサの屈辱1077年)で最盛期迎え聖職者叙任権闘争時代であったイングランド例外ではなくイングランド教会の長であるカンタベリー大司教始めとする聖職者の座を、王室教皇、どちらの権威持って叙任するのかという問題発展してゆく。これは、ただ単に名誉的な問題ではなく高位聖職者司教管区修道院を元として、封土不動産とそこに基づく財産所有)が慣習として認められていたため、政治的実質的問題となるのであったこのようにしてイングランドにおける教会代表者アンセルムスイングランド国王たちと、長きに渡る闘争巻き込まれてゆくのであるノルマンディー公であったギヨーム2世は、1066年イングランド国王ウィリアム1世として即位しノルマン朝興すノルマンディー公として、ウィリアム1世はル・ベック修道院保護者であり、また同修道院イングランド広大な地所所有するにいたり、アンセルムス時折同地訪れるようになる彼の温厚な性格ゆるぎない信仰精神により、アンセルムス同地人々慕われ尊敬されるいたって当時カンタベリー大司教であったランフランクス後継者だと、当然のように思われていた。 しかし1089年、その偉大なランフランクス死に際して、(教会対する)王権拡大狙っていた当時イングランド国王ウィリアム2世は、司教座土地財産押さえ新たな大司教指名しなかった。約4年後の1092年に、チェスターヒュー招きによって、アンセルムスしぶしぶというのもその様態度を明らか様にしていた同王の下で大司教任命されるのを恐れたから)イングランドへ渡った。4ヶ月ほどチェスターにおける修道院設立などの任務により同地拘束された後、アンセルムスノルマンディー帰ろうとした時、イングランド王によって引き止められた。翌年ウィリアム2世は病に倒れ、死が近づいているように思えた。そこで、大司教任命しなかった罪の許し欲したウィリアム2世は、アンセルムスしばらくの間空位となっていたカンタベリー大司教の座に指名したいざこざがあったものの、アンセルムス司教座引き受けることを納得したノルマンディーでの職務を免ぜられた後、アンセルムス1093年12月4日司教叙階受けた。彼は大司教座引き受け代わりにイングランド王次の事項要求した。すなわち、 没収した大司教管区財産返すこと 大司教の(宗教的な勧告受け入れること 対立教皇クレメンス3世否認しウルバヌス2世教皇として認めること である。自分の死が近いと思っていたウィリアム2世はこれらのことを約束するが、実際には、最初事項部分的に認められたのみであり、また、3番目の事項アンセルムスイングランド王険悪な関係に追い込むことになる。 幸か不幸かウィリアム2世は病の床から回復してアンセルムス大司教座見返り多大な財産贈呈要求した。これを聖職売買見たアンセルムスきっぱりと断り、これに怒った国王復讐に出る。教会決まりとして、カンタベリー大司教などの首都大司教として聖別されるには、パリウム直接教皇の手から授与されなくてはならない。したがってアンセルムスパリウム受け取りローマへ行くことを主張したが、これは実質的に王室教皇ウルバヌス2世権威認めることとなるため、ウィリアム2世ローマ行きを許さなかった。 イングランド教会首都大司教叙任問題は、その後2年わたって続いた1095年国王ひそかにローマへ使い出し教皇ウルバヌス2世認める旨を伝えパリウム持った教皇特使送ってくれるよう教皇頼んだ。そして、ウィリアム2世は自らパリウム授与しようとしたが、聖職者叙任という教会内の事柄俗界王権入り込むことを強硬に拒んだアンセルムスは、国王から受け取ことはなかった。 1097年10月アンセルムス国王許可得ずローマへ赴いた怒ったウィリアム2世アンセルムス帰還許さず直ち大司教管区財産押さえ以降彼の死まで保ち続けたローマでアンセルムスウルバヌス2世に名誉をもって迎えられ翌年バーリにおける大会議にて、正教会代表者らの主張対抗してカトリック教会ニカイア・コンスタンティノポリス信条確認され聖霊発出教義を守る役に指名された(大シスマ1054年出来事である。また、聖霊問題に関してフィリオクェ問題参照)。また、会議教会聖職者叙任権再確認したが、ウルバヌス2世イングランド王室と真っ向から対決することを好まずイングランド叙任権闘争決着見ず終わったローマ発ちカプア近郊小村で時を過ごしたアンセルムスは、そこで受肉に関する論文『神はなぜ人間なられたか』を書き上げまた、1099年ラテラノ宮殿での会議出席した1100年ウィリアム2世狩猟中に不明の死を遂げた王位を兄のロバート不在の間に継承したヘンリー1世は、教会承認得たいがために、ただちにアンセルムス呼び戻した。しかし、先代王と同じく叙任権要求したヘンリー1世アンセルムスは、再び仲たがいをすることとなる。国王教皇何度かこれを認めよう仕向けたものの、当時教皇パスカリス2世認めことはなかった。この間1103年4月から1106年8月まで、アンセルムス追放の身にあった。そしてついに1107年ウェストミンスター教会会議にて、国王叙任権放棄約束し和解もたらされた。このウェストミンスター合意は、後の聖職者叙任権闘争幕を下ろす1122年ヴォルムス協約モデルとなる。こうして、アンセルムス長きわたった叙任権闘争から解放されのである彼の最後2年間は大司教職務費やされた。カンタベリー大司教アンセルムス1109年4月21日死亡した。彼は1494年教皇アレクサンデル6世によって列聖され、また1720年には学識優れた聖人贈られる教会博士称号得た

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