聖職者への道とヴワディスワフ2世の庇護
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/11 09:27 UTC 版)
「アレクサンデル・マゾヴィエツキ」の記事における「聖職者への道とヴワディスワフ2世の庇護」の解説
マゾフシェ公シェモヴィト4世とアレクサンドラ・アルギルダイテの次男として生まれたアレクサンデルは、幼いころから将来聖職者になるための教育を受けた。少年期には母方の叔父であるポーランド王ヴワディスワフ2世のクラクフの宮廷へ送られ、彼の元で研鑽を積んだ。そのおかげで、1414年にアレクサンデルはわずか14歳でグニェズノ大聖堂のプロボストに任じられた。 1415年から1422年までクラクフ大学で学んだが、ここにおけるアレクサンデルは決して優秀な生徒ではなく、どの分野も十分に修めることができなかった。しかしやはり王族ということで、1422年には大学の規則を捻じ曲げて名誉学長の地位を獲得した。 1422年にヴワディスワフ2世はアレクサンデルをポズナニ司教にしようとしたが失敗した。しかし王は運動を諦めず、同年のうちに教皇マルティヌス5世からアレクサンドルへのトレンティーノ司教任命を取り付けた。このイタリアとドイツの境にある、ポーランドから遠く離れた教区に向け、アレクサンデルは長い旅に出た。
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