テルミドール後の公安委員会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/24 03:30 UTC 版)
「公安委員会 (フランス革命)」の記事における「テルミドール後の公安委員会」の解説
勝ち誇ったテルミドール派がまず最初にやったことは、革命の独裁機構をこなごなに粉砕することだった。公安委員会のロベスピエール派の処刑と左派の委員の追放によってあいた6名の空席は、7月31日、タリアンを筆頭とする反動勢力によって埋められた。8月24日、今後、公安委員会は毎月その4分の1が改選されることになり、一度、公安委員となった者は1ヶ月経過しなければ再選できないということになった。また広大な権限は大幅に縮小され、外交と軍事(作戦と人事)に限定された。公安委員が軍隊に直接命令できる権限はなくなった。カルノーはしばらく留任し、後に再選もしたが、委員会の役割が低下したため、目まぐるしく変わったテルミドール後の公安委員にめぼしい政治家はほとんどいなかった。 テルミドールのクーデターの翌日から停止されていたプレリアール22日法も8月10日に廃止され、革命裁判所は改組され、弁護は認められるようになった。自治市会も解散を命じられ、パリの市政は、公安委員会と保安委員会とが直接運営するようになった。国民衛兵隊からは貧民が排除され、ブルジョワ子弟で構成される俗に言う「金ぴか青年隊」に改組された。彼らはフレロンに率いられて白色テロを行い、1795年5月31日に革命裁判所が廃止されるまで猛威を振るった。 10月26日に始まった総裁政府は、正式発足の2日後、11月4日に公安委員会を解散させた。行政は、5名の総裁の1名が3ヶ月の任期で総理を務める交代制で、その下にある事務局が実務を行うことになったが、これは内閣の各省に相当する役所であった。総裁は任期5年だが毎年1名が抽選で退任して5年間は再選は禁止されるなど厳しい制約があり、外交権や任免権を持つが、強権を振るえないお飾りの役職だった。これら名目とは別に実質的には3名の総裁(バラスとルーベル、ラ・ルヴェイエール・レポー (Louis Marie de La Révellière-Lépeaux) の3総裁)が政治を司っていたが、彼らには統治機構を制御できなかったので、政局が苦しくなると軍隊によるクーデターに頼らざる得なかった。憲法には6〜8名大臣が想定されていたが、実際にはほぼ7大臣の構成で、彼らが各部門の政務にあたったが、これは公安委員会時代とあまり変わらなかった。ただ「革命政府」の時代は終わり、立法権と行政権は完全に分割され、極端といえるほど、お互いに干渉できないような構造となっていて、政府は以後は立法を行うことはもちろん提案することすらできなかった。二院制の立法府も常設委員会を持つことは禁止され、議員が集団で活動したり政党党派を組むことも議席の席替えすら禁じられていた。 詳細は「総裁政府」を参照
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